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八正道を調和させる(全訳)

アチャン・チャー

 皆さんは、自分が実践している瞑想について、どれくらい確信を持っていますか? なぜこんな質問をするのかというと、最近では僧侶でも在家でも瞑想指導者がたくさんいて、皆さんが瞑想について疑問に思うことがよくあるのではないかと思うからです。自分が実践している瞑想法について正しく理解をしていれば、不安になることなく、確信を持って実践に取り組むことができます。
 
 瞑想実践をするにあたって、私たちは八正道、言い換えるなら、戒(シーラ)、定(サマーディ)、慧(パンニャ)を正しく理解する必要があります。八正道とはバラバラなものではなく、一体となったものです。私たちの修行は、八正道を自らの内に生じさせることにあります。
 
 座って瞑想をするときは、目を閉じて、外部のものを見ないようにしてください。私たちが観察すべきなのは、外部ではなく、自らの心です。目を閉じると、注意が内側に向かいます。呼吸に注意を向け、感覚をそこに集中させ、気づき(サティ)を確立させるのです。八正道の各要素が調和したとき、私たちは呼吸、感情、心をありのままに観察できるようになります。サマーディと八正道の他の要素が調和して収束する「フォーカスポイント」が分かるようになるのです。
 
 座って瞑想をするときは、今、自分は独りで座っているのだと考えるようにしてください。周囲には誰もいないように思うのです。そして、この独りで座っているという感覚を、心がすべての外的なものを手放し、呼吸にのみ集中できるようになるまで育ててください。
「この人がここに座っている。あの人があそこに座っている」
なとど考えていると、心は落ち着かず、内面に集中することができません。自分の周囲には誰もおらず、何もないと感じられるまで、あらゆる対象を手放すようにしてください。
 
 呼吸を無理に短くしたり、長くしたりする必要はなく、ただ座って息が出たり入ったりするのを観察するだけでいいのです。心が外界の対象をすべて手放せば、外の車の音などといったものは、気にならなくなります。心がそれらのものから刺激を受けないので、外界の景色や音といったものは、私たちの邪魔をしなくなるのです。そのとき、あなたの注意は、呼吸に集まってくるでしょう。
 
 もし心が落ち着かず、呼吸に集中できない場合は、できる限り深く息を吸い、そして何も残らなくなるまで息を吐きだしてください。これを3回行い、再び呼吸に注意を向けると、心が落ち着いてくるはずです。
 
 ただ、そうして一旦は心が静まっても、再び落ち着かなくなるのは自然なことです。そんなときは、もう一度深い呼吸をし、再び呼吸に意識を集中させます。このようにして、実践を続けてください。こうしたプロセスを何度も繰り返すことによって、私たちは瞑想実践に熟達するようになり、外部からのいかなる刺激も手放せるようになります。もはや、外部の物事に惑わされることはありません。気づき(サティ)がしっかりと確立されてくるのです。心が微細なものになってくると、呼吸も微細なものになっていきます。感覚はますます繊細なものになり、身も心も軽くなってきます。注意の大半は内面に向けられ、入息、出息を明瞭に観察することができるようになります。ここにおいて、戒(シーラ)、定(サマーディ)、慧(パンニャ)は一体のものとなります。このことを「八正道を調和させる」といいます。八正道が調和するとき、私たちの心は迷いから解放され、統一された状態となります。これを、サマーディというのです。
 
 長い時間、観察を続けていると、呼吸は非常に微細なものとなり、やがて消えていき、ただ気づきだけが残ることがあります。あまりにも微細になると、呼吸は消えてしまうようなことがあるのです。そのような場合、あなたは「ただ座っている」だけで、呼吸が止まってしまったように感じるかもしれません。ですが、実際には呼吸は止まっていないのです。これは、心が最も微細な状態に達したために生じたことであって、そのとき、ただ気づきだけが残った状態になっているのです。これは、通常の呼吸を超越した状態であると言えます。では、こうした状態に達したとき、私たちは何を瞑想の対象とすればいいのでしょうか? その場合、「気づき」を瞑想の対象にすればよいのです。言い換えるなら、「呼吸がないことに気づいている状態」を対象にして、瞑想をするのです。
 
 このようにして修業を続けていくと、予期せぬことが起こるかもしれません。そうしたことが生じるかは、人それぞれです。もし、そうしたことが起こったのなら、どっしりと構え、強い気づき(サティ)を持たなければなりません。呼吸が消えてしまったように感じると、死ぬかもしれないと思い、怖くなる人もいます。そうしたときは、状況をありのままに観察するようにしてください。ただ、呼吸が消えてしまったようだと気づき、そのこと自体を気づきの対象とすればいいだけのことです。これは、最も堅牢な種類のサマーディであると言えるでしょう。このとき、私たちの心は確乎不抜のものとなっています。この段階にまで至ると、身体が軽くなり、まるで身体そのものが消滅してしまったように感じることがあるかもしれません。何もない空間に座っているような、空(くう)そのものとなってしまったような感覚です。こうしたことは非常に珍しいことですが、もし仮に生じたとしても、恐れることはありません。ただ、心をしっかりと持っていれば大丈夫です。
 
 心が確乎不抜のものとなり、外部の対象に惑わされることがなくなれば、いつまでもそうした状態にとどまることが可能になります。それを妨げるような、身体的な痛みなども感じることはありません。サマーディがこのレベルに達したときは、いつでもサマーディから出ることは可能です。そして、サマーディから出たとき、疲れや飽きたという感覚はまったくなく、爽快な感覚だけが残ります。それは大変リラックスした、もう自分には何の問題もないと感じられるような感覚です。
 
 このレベルのサマーディを身につけることができれば、30分か1時間ほどサマーディに入ることによって、何日間も穏やかな心で過ごすことができるようになります。そのとき、心は清らかな状態となっています。何を経験しようと、心はその対象に注意を向け、観察することが可能となっています。これがサマーディの果(パラ)であると言えます。
 
 戒(シーラ)、定(サマーディ)、慧(パンニャ)は、それぞれ別の働きを持ったものですが、サイクルのようになって、一体のものとして機能します。心が静まったとき、私たちはそのことを理解します。心が静まれば、定(サマーディ)と慧(パンニャ)の力が強まり、そのことによって、心を制御できるようになります。心が統一されてくると、それに伴って、戒(シーラ)は清らかなものとなっていきます。戒(シーラ)が清らかになっていけば、定(サマーディ)の修行は容易なものになります。定(サマーディ)が強くなっていけば、慧(パンニャ)は自然と生じてきます。戒(シーラ)、定(サマーディ)、慧(パンニャ)は、このように互いを補い合うもので、相互に連関しています。そしてそれは最終的には八正道として一つのものとなり、常に働くようになります。このようにして、私たちは八正道の力を育てていくべきです。やがてその力は、私たちを洞察と智慧に導いていくことでしょう。

サマーディの危険性

 瞑想実践者にとって、サマーディは多くの利益と害の双方をもたらすものです。智慧のないものにとってサマーディは有害ですが、智慧のあるものにとっては利益となり、洞察へと導くものとなります。
 
 瞑想実践者にとって最も害となる可能性があるものは、ジャーナです。この種のサマーディは、私たちの心に非常な安らぎを与えます。そうした安らぎを感じれば、幸福を感じるのは自然なことです。幸福感というのは一見いいもののように思えますが、そうした幸福を感じることには執着が生じます。そうすると、瞑想実践者はより以上の智慧を探求することをせずに、ジャーナから得られる快楽に耽るようになってしまうのです。瞑想実践を長く続けていると、短時間でサマーディに入ることができるようになります。瞑想の対象に注意を向けるとすぐに心は静まり、心がさまようこともなくなります。問題なのは、私たちは、こうした静寂から生み出される幸福感から、抜け出せなくなってしまうということです。これは、瞑想実践者にとっては、大変危険なことです。
 
 私たちが実践しなければならないのは、そうした深いジャーナよりもむしろ、ウパチャーラ・サマーディ(近行定)のほうです。ウパチャーラ・サマーディ(近行定)に一旦入って、十分に心が静まったら、サマーディから出て外部の事象を観察する。静まった心で外部の現象を観察することによって、智慧(パンニャ)が生じるのです。このことを理解するのは、難しいかもしれません。私たちは普段、思考をしているときは、心は静まらないものだと思っていますから。ですが、ここで外部の現象を観察するときの私たちの心は、すでに静まっています。ですから、観察によって、心を乱されることはありません。瞑想するために必要な思考というものもあります。それは、観察するために必要な思考力であって、無目的に何かを考えたり、推測したりすることとは異なります。こうした瞑想をするために必要な思考力というものは、静まった心から生じるものです。私たちはこれを、「気づき(サティ)は心の静けさの中にあり、気づきの中に静けさがある」と呼んでいます。普通に考え事や、妄想をしているときは、心が静まることはありません。しかし、ここで話題にしているのは、一般的な意味での思考ではなく、静まった心から生じるものについての話です。それが、真の意味で「瞑想」と呼ばれるものです。智慧(パンニャ)は、まさにここから生まれるのです。
 
 ですから、サマーディには、正しいものと間違ったものがあるのです。間違ったサマーディとは、心は静寂になっているが、気づき(サティ)が無い状態のことです。そのような状態で、2時間、もしくは1日中座っていたとしても、自分の心の状態について、まったく気づくことはできません。心の静けさのみがあって、何に対しても気づく(サティ)ことができない状態と言ってもいいでしょう。切れ味の鋭すぎるナイフは、使いにくいのと同じようなものです。気づき(サティ)を欠いた心の静けさは、煩悩と変わりありません。こうした瞑想にハマってしまっている修行者は、自分が究極の段階に達したと勘違いして、それ以上の探求をやめてしまうかもしれません。こうした場合、サマーディは修行にとって有害なものとさえなります。正邪に対する気づき(サティ)が無いため、智慧(パンニャ)の生じる余地がないのです。
 
 正しいサマーディを実践しているのなら、どれほど瞑想によって心が静まっても、そこには常に気づき(サティ)があります。完全な気づき(サティ)と、明晰さがあるのです。これこそが智慧(パンニャ)を生み出すことのできるサマーディであり、そのとき、静寂にハマってしまうようなことはありません。瞑想実践者は、このことをよく理解しておく必要があります。瞑想実践において、気づき(サティ)とは、最初から最後までなくてはならないものです。気づき(サティ)があるのなら、サマーディは危険ではありません。
 
 なぜサマーディから智慧(パンニャ)が生じるのか、疑問に思う方もいるかもしれません。正しいサマーディを身につければ、智慧(パンニャ)が生じるチャンスはいつでもあります。智慧があれば、目が色や形を見たとき、耳が音を聞くとき、鼻が匂いを嗅ぐとき、舌が味を感じるとき、身体が何かに触れるとき、心に印象が生じたとき、いつでも心はそれらの感覚の本質に気づき、それらの対象を追い求めることがなくなります。どのような時でも、楽(スカ)と苦(ドゥッカ)が発生する瞬間に、気づくことができるようになります。楽(スカ)と苦(ドゥッカ)の双方を手放し、執着しない。これが、正しい修行というものです。こうした修行を、どのような姿勢の時でも実践するようにしてください。ここでいう「どのような姿勢の時でも」というのは、身体の姿勢だけを指すのではありません。それは、いつでも心に気づき(サティ)を持つことを意味します。サマーディの力を正しく育てると、このように智慧(パンニャ)が生じます。この智慧を、洞察智といいます。
 
 心の平安には、粗いものと微細なものの2種類があります。サマーディから得られる平安は、粗い種類のものです。心が平安になると、私たちはそれに楽(スカ)を感じ、大切なものだと思ってしまいます。けれども、楽(スカ)と苦(ドゥッカ)は、再生を生じさせるものです。それらにしがみついていては、輪廻を脱することはできません。ですから、楽(スカ)を真の平安であると勘違いすることのないようにしてください。
 
 智慧(パンニャ)から生じる平安は、もっと微細なものです。平安と楽(スカ)を混同することなく、楽(スカ)と苦(ドゥッカ)を冷静に観察し、正しく知ることから真の平安は生まれます。智慧(パンニャ)から生じる平安は、単なる楽(スカ)ではなく、楽(スカ)と苦(ドゥッカ)の双方の真実を見抜くものです。このとき、楽(スカ)と苦(ドゥッカ)への執着は生じず、心はそれらのものを超越します。これこそが、仏道修行の真の目的なのです。

 アチャン・チャー『A Taste of Freedom』より
 
"A Taste of Freedom", by Ajahn Chah. Access to Insight (BCBS Edition), 30 November 2013, http://www.accesstoinsight.org/lib/thai/chah/atasteof.html .


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