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コブラに対するように(全訳)

アチャン・チャー

●この法話は、1978年の末から1979年の初めにかけての二か月間、アチャン・チャーの指導を受けた年配のイギリス人女性への、最後の指導として語られたものです。

 もうすぐロンドンに帰る弟子のために、少し話をしたいと思います。この法話が、あなたがワット・パー・ポンで行った修行をより深く理解するための助けとなりますように。簡単に言うならば、あなたがここで数か月取り組んできた修行は、輪廻を脱するためのものなのです。
 
 仏教の修行をするときには、自分の好きなものや嫌いなものに対する心の動きを、コブラに対する時と同じように考えなくてはなりません。コブラは猛毒の蛇で、噛まれたら死んでしまうほどの毒を持っています。私たちの感情についても、同じことが言えます。好きという感情も、嫌いという感情も、同様に毒です。これらの感情は私たちの心の自由を妨げ、ブッダが説いた真理を理解する妨げにもなります。
 
 ですから、一日中気づき(サティ)を保つことが大事なのです。立っているとき、座っているとき、横になっているとき、話しているとき、何をしているときでも、気づき(サティ)を持っておこなうことが大切です。気づき(サティ)が確立されれば、それに伴って正知(サンパジャンニャ)が生じます。気づき(サティ)と正知(サンパジャンニャ)の双方が揃うとき、そこに智慧(パンニャ)が生まれます。気づき(サティ)、正知(サンパジャンニャ)、智慧(パンニャ)の三つが働いていれば、私たちは昼も夜も目覚めている人のようになれるのです。
 
 ブッダが説いた教えは、ただ知識として学べばいいというものではありません。実践を通じて自ら確かめ、知ることができるものが、ブッダの教えです。ですから、私たちがどこにいて、何をしていようと、気づき(サティ)と正知(サンパジャンニャ)と智慧(パンニャ)の三つを、心に保持しなければなりません。この三つを心に保持することは、心に真理を保持することと同じです。心に真理を保持するとは、何をするときでも、何を話す時でも、智慧を使っておこなう、ということです。思索をするときも、智慧を使って考える必要があります。このように、気づき(サティ)と正知(サンパジャンニャ)と智慧(パンニャ)の三つを併せ持つ人のことを、「ブッダに近い人」と言うのです。
 
  母国に帰った後も、あなたがこの僧院で学んだことを心に留めて、修行に励んでください。気づき(サティ)と正知(サンパジャンニャ)によって自分の心を観察し、智慧(パンニャ)を育ててください。気づき(サティ)と正知(サンパジャンニャ)と智慧(パンニャ)の三つが揃っているとき、「手放す」ことが可能となるのです。そして、手放すことができれば、あなたはこの世界にあるのは、絶え間なく生じては滅する現象だけであるということが理解できるでしょう。
 
 生じては滅する現象というものは、私たちの心の活動にすぎません。何かが生じても、それは必ず滅し、また何かが生じては滅する、ということが続くだけです。仏教では、この生じては滅することを指して「生滅」と呼びます。これが、この世界のすべてです。苦しみ(ドゥッカ)が生じると、やがてそれは滅し、しばらくするとまた新たな苦しみが生じます。言い換えるなら、この世の中というのは、ただ苦しみ(ドゥッカ)が生じ、やがて滅するだけのものなのです。このことが分かれば、日常生活の中にある生と滅のプロセスを、常に知ることができるようになります。そうすれば、世の中には生と滅のプロセスしかないことが、身に染みて分かるでしょう。この世にあるのは、「生」と「滅」だけです。永続するものなど、どこにもありません。ただ、「生」と「滅」のみがある。それだけのことです。
 
 このような理解に達すると、自然と世間に対して厭離の念が湧いてきます。物事とはただ生じては滅するだけのものであり、獲得する価値のあるものなど、この世の中には何もないと分かったとき、厭離の感覚は生まれます。このとき、私たちは物事を「手放す」ことができるようになります。あらゆる物事を、そのあるがままにして、放っておくのです。心の中で、物事が生じては滅していることに、気づく(サティ)ようにしてください。心の中に楽(スカ)が生じたときも気づき、不満足(ドゥッカ)が生じたときも気づくようにしてください。この「楽(スカ)や不満足(ドゥッカ)が生じたときに気づく」というのは、私たちがその楽や不満足を自分自身と混同しないということです。楽(スカ)や不満足(ドゥッカ)は私たち自身でも、私たちの所有物でもありません。そうして、楽(スカ)や苦しみ(ドゥッカ)に執着することがなくなれば、私たちは物事をあるがままに放っておくことができるようになります。
 
 私たちの心の中の感情というものは、猛毒をもったコブラのようなものです。コブラは、私たちが干渉をしなければ、ただ自分の道を行くだけです。その場合、たとえコブラが猛毒を持っていようと、私たちは噛まれることはなく、影響を受けることもありません。コブラは自然の法則に従って生きているだけです。それは、どうにもなりません。あなたが賢明なら、コブラを放っておくべきです。そして、それと同じように、良いことがあろうと、悪いことがあろうと、放っておくのです。コブラに干渉しないのと同じように、自分の好きなことも嫌いなことも、そのままにしておくのです。
 
 私たちが自分の心の中に生じる感情に対して、とるべき態度はこのようなものです。心の中に善が生じたとき、それに気づき(サティ)、そのままにしておきます。そして、それらは変化するものであると理解しておきます。心の中に悪が生じても、同じです。それに気づき、そのままにしておいてください。何も欲さなければ、その対象を握りしめることもありません。私たちは悪を欲せず、善も欲しません。重さも軽さも、楽(スカ)も苦(ドゥッカ)も欲しません。このようにして、私たちの欲望が終焉を迎えるとき、心の平安がしっかりと確立されるのです。
 
 心の平安が確立すれば、私たちはその平安を拠り所にして生きていくことができます。この平安は、元々は無明から生じたものですが、いまやその無明は消え去っています。このように悟りを開くことをブッダは「火が消える」と表現しました。火が消えるには、まず炎があるのが前提です。炎を消すから「火が消える」と言えるのです。悟りについても、それと同様のことが言えます。涅槃は輪廻(サンサーラ)の中に見出されるものです。悟りと輪廻(無明)は、暑さと寒さのように、対になって存在するものなのです。寒さがあれば必ず暑さも存在しますし、暑さがあれば必ず寒さも存在します。熱が生じれば涼しさは消え、涼しさが生じれば熱は消え去ります。このように、涅槃と輪廻は対になった存在なのです。
 
 私たちは、輪廻(サンサーラ)に終止符を打たなければなりません。それは、永遠に続く無明のサイクルを止めることを意味します。無明を終わせるには、三毒という火を消す必要があります。火が消えれば、そこに残るのは涼しさだけです。欲(ローバ)・怒り(ドーサ)・無知(モーハ)という三毒の炎が消えたとき、そこに心の静寂のみが残ります。
 
 このようにして火が消えること、熱が冷めることが、悟りの本質です。心の平安とは、このようにして得られるものなのです。そのとき、生と死の絶え間のないサイクルである輪廻は、終わりを告げます。そして、私たちの心の中にある、欲(ローバ)・怒り(ドーサ)・無知(モーハ)という三毒も消滅します。世間の人々は悟りの境地を幸せなものだろうと想像しているので、私たちも幸福といった言葉を使ってそれを表現しています。ですが、実際のところ、悟りの境地とは幸福といった次元を超えています。それは、楽(スカ)や苦(ドゥッカ)といったレベルを超えたものです。完全なるやすらぎが、そこにはあります。
 
 ですから、あなたは私が与えたこの教えをしっかりと受け止め、国へ戻っても注意深く実践を続けてください。この森の僧院での生活はあなたにとって楽なものではなく、私はあなたに直接瞑想を指導する機会がほとんどありませんでした。ですが、この二か月間で、あなたは仏道修行の真の意味を学んだことと思います。この修行があなたを幸福へと導き、真理を会得する助けとなりますように。そして、あなたが果てしなく続く生と死の苦しみから解放されますように。

アチャン・チャー『Bodhinyana』より
 
"Bodhinyana: A Collection of Dhamma Talks", by The Venerable Ajahn Chah, (Phra Bodhinyana Thera). Access to Insight (BCBS Edition), 1 December 2013, http://www.accesstoinsight.org/lib/thai/chah/bodhinyana.html .
 

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