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ダンマとともに生きる(全訳)

アチャン・チャー

 世間の人々の多くは、瞑想実践というものの本質を知りません。彼らが仏教の修行と聞いてイメージするのは、座る瞑想、歩く瞑想、法話を聴く、などといった行為です。それらは間違いではありませんが、あくまで修行の外形的なものに過ぎません。真の仏道修行とは、心が感覚の対象に触れた瞬間になされるものです。心が感覚の対象に触れるときこそ、私たちが修行の場にいるときなのです。私たちは通常、人から嫌なことを言われれば怒り、好ましいことを言われれば喜びます。そのときこそが、修行をすべき瞬間なのです。こうした状況を、どのように仏道修行に活かすか? ここが勝負のしどころです。もし、私たちが苦しみ(ドゥッカ)から逃げ回り、幸福(スカ)のみを追い続けるなら、死ぬまでダンマを理解することはないでしょう。それでは、人生の無駄遣いというものです。喜び(スカ)や苦しみ(ドゥッカ)が生じた際に、それらに囚われないように、どのようにダンマを活用するか。それこそが、仏道修行の要点なのです。
 
 私たちは通常、嫌なことが起きると、それを素直に受け入れることはありません。例えば、他人に批判されたときなどは、
「余計なお世話です! なぜ私をそんな風に責めるのですか?」
などと反論します。他人の批判に対して心を閉ざしてしまうために、そのような反応になるのです。しかし、このようなときこそが、仏道修行のチャンスなのです。誰かに批判をされたのなら、まずはその言葉に耳を傾けるべきです。彼らが語っていることは、事実なのかどうか? まずは心を開いて彼らの言葉を受け止め、そのうえで内容を吟味しなければなりません。もしかすると、彼らの話にも一理あるかもしれませんし、私たち自身にも非難されるべき点があるかもしれないからです。相手の批判が正しい場合があるかもしれないのに、私たちは批判をされるとすぐに腹を立ててしまいます。他人から欠点を指摘されたら、素直に受け入れ、その欠点を改善する努力をしなければいけません。理性のある人というのは、そのようにして仏道修行を実践するものです。
 
 混乱があるところに、やすらぎが生まれます。智慧(パンニャ)があれば、混乱をやすらぎに変えることができるのです。傲慢な人々は、自分に対する批判を受け入れることができません。彼らは自分に対する批判は決して受け入れず、反論をします。特に、大人が子どもに接するときは、そうした態度になりがちです。時として、子どもも知的な発言をすることがあります。ですが、その子の母親は、そうした発言に対して真摯に耳を傾けることはありません。学校でも、生徒が教師の知らないことを知っている場合があります。ですが、教師はその事実を素直に受け入れることができません。こうした態度は、正思惟とは言えないものです。
 
 ブッダの在世中に、サーリプッタという名前の大変聡明な弟子がいました。ある日、ブッダが弟子たちにダンマを説いているとき、サーリプッタに向かって、
「サーリプッタよ、そなたはこの話を信じますか?」
と尋ねました。サーリプッタはその問いに対して、
「いいえ。まだ信じておりません」
と答えました。それを聞くと、ブッダはサーリプッタを大変褒められました。
「サーリプッタよ、そなたは本当に智慧に恵まれている。智慧のあるものとは、このサーリプッタのように物事を簡単に信じるのではなく、まず相手の話を聞き、心を開いて受け止める。そして、そのうえで真偽を吟味してから、信じるか否かを判断するものなのだ」
 
 この話の中で、ブッダは指導者のあるべき姿を、私たちに示してくれています。サーリプッタ長老はただ、自分の本心を素直に語っただけです。師匠の語ったことを信じないと言うのは、師の権威を疑うことだと考える人もいるでしょう。そして、そんなことを面と向かって言うのは、恐れ多いと思う人もいるでしょう。師匠の言うことは、とりあえずは信じるというのが、世間一般の常識です。しかし、ブッダはそのような常識をよしとはしませんでした。間違ったことや、悪いことを言うのでなければ、自分の言動を恥じる必要はないと、ブッダは言いました。自分が信じていないのなら、「信じていません」ということは、間違いではありません。ですから、サーリプッタ長老は
「いいえ。まだ信じておりません」
と答えたのです。そうしたサーリプッタ長老の態度を見て、ブッダは
「サーリプッタは本当に智慧に恵まれている。彼は何かを信じる前に、注意深く物事を検討する」
と褒め称えたのです。こうしたブッダの態度は、人に何かを指導する立場の者の模範となるものです。たとえ小さな子どもであっても、その子から何かを学ぶことはできるものです。指導者たるもの、自らが持つ権威に対して、盲目的に執着するものではありません。
 
 立っていても、座っていても、歩いていても、私たちは常に身の回りのものから学ぶことができます。眼・耳・鼻・舌・身・意といった感覚器官に触れた、あらゆる刺激を通じて、私たちは学びを深めることができるのです。賢者はそうした刺激をすべて観察します。修行が本格的な段階に達していれば、心に不安や憂いといったものはなくなっているはずです。
 
 感覚器官に外部の対象が触れることによって、「好き」「嫌い」という感情が生じるのだという事実を知らなければ、心の中に不安や憂いが無くなることはありません。その仕組みを知っていれば、
「あぁ、この好きという感情には、実体が無いのだな。ただ、生じては滅する感情なのだ。同じように、嫌いという感情にも実体は無く、生じては滅するものにすぎない。そんなものに振り回される必要はないのだ」
ということが分かります。「好き」「嫌い」という感情を、自分の所有物のように見なしてしまうと、私たちの人生は困難なものとなります。それはある種の固定観念を強化し、私たちをがんじがらめにするものです。世間の大半の人々は、こうした価値観に基づいて人生を送っています。
 
 最近の瞑想指導者は、こうした人間の心の仕組みについて、あまり語ることが無いようです。そして、世間の人々もまた、そうした真理について関心がありません。せっかく瞑想指導者がそうした真理について語っても、
「あの僧侶は時と場所をわきまえない人間だ。もっと感じのいい法話ができるだろうに」
と文句を言う有様です。しかし、たとえ耳障りに聞こえたとしても、私たちは真理の言葉に耳を傾けるべきなのです。真の瞑想指導者とは、単に自分の知識を開陳するのではなく、真理について語るものです。世間の人々は、通常、自分が記憶している知識に基づいて話をしますが、真の瞑想指導者は、真理に基づいて話をするのです。また、世間の人々は普通、自分自身をよく見せるようにスピーチをします。ですが、本物の比丘は決してそんなことはせず、真理をありのままに語るものなのです。
 
 本物の瞑想指導者がいくら真理を語っても、世間の人々にはそれを理解することは難しいでしょう。真理を理解するのは、それほど難しいものなのです。ですから、もし皆さんが真理を理解できたのなら、それに従って修行に取り組むべきです。必ずしも出家をする必要はありません。ただ、比丘の生活は、修行をするにあたっては理想的な環境です。真剣に修行をするのなら、世俗から離れ、家族や財産も捨て、森で生活をすることです。それこそが、理想的な修行の場というものです。
 
 ですが、もし既に家族などがおり、在家のままで仏道修行をしようとするのなら、どうすればよいのでしょうか? 世の中には、「在家のままで仏道修行をするのは不可能だ」と主張をする人もいます。しかしながら、考えてもみてください。この世の中で、出家者と在家者の人数は、どちらが多いでしょうか? 在家者のほうが圧倒的に多いですよね。ですから、出家者のみがダンマを学び、在家者は学ばないということになったら、世の中はうまくいかなくなります。つまり、「在家のままで仏道修行をするのは不可能だ」というのは、間違った考え方だということです。
「私には家族がいるから、出家できない……」
と悩む人がいます。ダンマを学ぶにあたって、出家しているかどうかは、重要なポイントではありません! 出家をした比丘であっても、修行に励んでいないのなら、何の意味もないのです。ダンマの実践方法を本当に理解しているのなら、教師、医者、公務員など、世間のどのような職業に就いている人であっても、一日中どんな時でもダンマを実践することができるはずなのです。
 
「在家では瞑想を実践することができない」と思うのは、完全に間違いです。私たちはなぜ、瞑想以外の様々な活動をするのですか? 「何かが不足している」と感じれば、私たちはそれを手に入れようと努力をするものです。十分な欲求があれば、私たちは自然に行動を起こすのです。
「毎日忙しいので、瞑想をする時間が無い」
という人々もいます。そういう人には、
「では、あなたは呼吸をする時間も無いのですか?」
と私は尋ねます。呼吸は、私たちの生活にとって不可欠のものです。もし、ダンマの実践が自分にとって不可欠なものだと理解しているのなら、それが呼吸と同様におろそかにできないものだと分かるはずです。
 
 ダンマを実践するといっても、走り回ったり、特に激しい運動をする必要はありませんから、疲れることもありません。ただ、自分の心に生じる感情を観察すればよいのです。眼が形を見るとき、耳が音を聞くとき、鼻が匂いを嗅ぐとき、それらを知覚するのは私たちの心、言い換えるなら「知る者」です。では、心がこれらの感覚の対象を知覚したとき、一体何が起こるのでしょうか? その対象が好きなら喜びが生じ、嫌いなら不快感が生じる。それだけのことなのです。
 
 こうした世界で、一体どのようにして、私たちは幸福になれるのでしょうか? 一生、周囲の人々が、自分にとって心地よいことだけを言ってくれることなど、可能でしょうか? そんなことは、不可能ですよね。では、私たちはどうすればいいのでしょうか? この世界で幸福に生きるためには、私たちは世界(世間)というものを理解しなければなりません。この世界における真理を理解することを、パーリ語で、lokavidū(世間解)と言います。私たちは、自分たちが暮らす世界(世間)を、明確に理解すべきです。ブッダも最初は、世間の中で暮らしていました。彼も結婚をし、家庭生活を営んでいました。しかし、やがて世間というものを明確に理解する中で、世間で暮らしていくことの限界を感じ、最終的に出家の道を選びました。ですが、皆さんは出家者ではなく、在家者です。在家者はどのようにして、仏道を実践していけばいいのでしょうか? もし、皆さんが在家者のまま仏道修行をしたいのなら、八正道を実践することが不可欠です。根気よく八正道の実践に励めば、皆さんもやがてはこの世間の限界を感じ、そこから離れることができるようになるでしょう。
 
 飲酒の習慣がある人に、飲酒を止めるように言っても、
「どうしても止められない」
と言います。どうして飲酒を止められないのでしょうか? それは、彼がまだ飲酒の持つマイナス面を認識していないからです。もし、彼が飲酒のもたらすマイナス面をしっかりと認識しているのなら、他人から忠告されるのを待つまでもなく、飲酒を止めるでしょう。もし、私たちが物事のもたらすマイナス面を理解していないのなら、それはその物事を手放すことのプラス面を理解していないのと同じことを意味します。それ程度のレベルの修行では、たいした結果は期待できません。それではまだ、ままごとレベルの修行です。真剣に修行をし、様々な物事のプラス面、マイナス面をしっかりと理解していれば、他人に指摘されるのを待つまでもなく、不適切なおこないから離れるでしょう。漁師が漁をするときのことを想像してみてください。漁師は魚を捕る網の中で、何かがバタバタと跳ねる音を聞きました。そして、魚だと思い網に手を入れてみると、魚とは違う手触りです。網の外から姿ははっきりとは見えず、さてどうしたものでしょう? 網の中にいるのは、貴重なウナギかもしれませんし、危険な蛇かもしれません。ウナギだったら、諦めたら損です。でも、もし万一蛇だったら、噛まれてしまう危険があります。漁師は疑心暗鬼に陥りました。しかし、彼の欲はとても強く、ウナギを諦めることができません。漁師は思い切って網の中のものをつかみ、網から引き抜きました。引き抜いた生き物の縞模様の皮を見た瞬間、彼はそれを遠くに投げ捨てました。咄嗟の行動をとるのに、誰かが、
「蛇だ! 放せ、放せ!」
と叫ぶのを待つ必要はありません。蛇の姿を見ることは、誰かに言葉で蛇の危険性を注意されるより、ずっと雄弁にその危険性を理解させてくれます。何といっても、ぼうっとしていたら、蛇に噛まれてしまうのですから! この話と同様に、私たちが現象をありのままに観察することができたなら、自ずと有害な行為からは離れていくものなのです。
 
 世間の人々は、通常そのような瞑想実践はしません。ですから、現象の本質について考えることもなく、老、病、死といったことに、真剣に向き合うこともありません。老いないことや、死なないことには興味がありますが、仏道修行に感心は無いのです。世間の人々も、熱心に仏教の法話会に足を運びますが、彼らは真に法話を聴いているとは言えません。時々、私も重要な法要で法話をするように頼まれますが、内心迷惑しています。なぜなら、実際そうした法要に足を運んで、集まった聴衆の顔を見てみると、真剣に法話を聴くために集まっているのではないことがわかるからです。酒臭い人。煙草を吸っている人。おしゃべりをしている人。真剣に法話を聴くためにやって来た人は、ほとんどいません。そのような場所で説法をしても、ほとんど意味が無いのです。放逸な人たちは、
「あの坊主の話は、いつになったら終わるんだろう……。家に帰って、色々とやりたいことがあるのに……」
などと考えているものです。そうして、彼らの妄想は尽きることがありません。
 
 あるときなど、正式な儀式の法要に私を呼んでおきながら、
「アチャン、法話は短めにお願いします」
と言われたこともありました。そこに集まった聴衆は、私の話など聴きたくないのです。彼らは仏教には興味が無く、法話を聴くのが嫌いなのです。そんな人たちに、短い法話で真理を伝えることができるでしょうか? 皆さんは、ご飯を少しだけ食べて、満腹になりますか? 無理ですよね。
 
 あるとき、私が法話の本題に入る前に、時事的なことについて少し話していると、酔っ払いが前に出てきて、
「ほら、みんな道をあけろ! 長老のお帰りだ!」
と大声でがなり立ててきたこともありました。一刻も早く、私に帰ってほしいわけです。このような人と会うと、私は人間という生き物の持つ性質について、多くのことを考えさせられます。彼らは、コップ一杯の水を持っているにもかかわらず、もっと欲しいという人に似ています。彼らに、さらに与える水はありません。彼らの頭は既に色々なことでいっぱいになっているので、時間と労力をかけてダンマを説いても意味がないのです。仮にダンマを説いても、既に満杯になった頭から、無駄に溢れるだけです。ダンマを説く意味があるのは、彼らの頭にダンマを受け入れる余地があるときだけです。もし彼らの頭にダンマを受け入れる余地があるのなら、ダンマを説くことによって、説いた側、聴いた側の双方にとって利益となるでしょう。
 
 心からダンマに関心を持ち、静かに座って熱心に法話を聴いてくれる聴衆がいるときだけ、私は法を説く意欲が湧いてきます。人の話を聴く気のない聴衆というものは、満杯の水の入ったコップを持った人のようなものです。そのコップには、もうこれ以上、水を注ぐ余地はありません。そうした人たちと話すのは、無意味なことです。ですから、私もやる気がなくなってしまうのです。ダンマを学ぶ気のない人に、情熱を持って指導をすることは不可能です。
 
 最近の法話会に来る人々は、大体このような感じです。世間の人々は、真理の探究には感心がありません。彼らが関心を持っているのは、生計を立て、家族を養うために必要な知識を得ることです。彼らが勉強をするのは、生活のためなのです。ダンマにも少しは関心があるかもしれませんが、大して熱心ではありません。最近の学生は、昔の時代に比べてはるかに多くの知識を持っています。学習環境もよくなっていますし、あらゆることが便利になっています。しかし、彼らは昔の時代の人々に比べ、混乱し、苦しみの中で生活をしています。なぜでしょう? それは、彼らが生計を立てるための知識しか持っていないからなのです。
 
 比丘に至っても同様です。
「私はダンマを実践するために比丘になったのではありません。学問をするために出家をしたのです」
という比丘さえいる有様です。これは、修行の道を完全に放棄した人の言う言葉です。そういう人達はいずれ、必ず行き詰るでしょう。こうした比丘が長老になっても、知識からしか指導できません。彼らの話す内容に、自身の心が伴わないのです。そのような教えは、真理とは言えません。
 
 世間とは、その程度のものです。ダンマを実践し、心穏やかに暮らしているだけで、あいつは変だとか、反社会的だとか言われる始末です。世間の人々から見ると、仏教徒の生活は、社会の進歩を妨害しているというわけです。あなたも、いずれ世間の人々から、脅かすようなことを言われることがあるかもしれません。そして、そうした人々の言葉を一旦受け入れてしまえば、世俗の生活にどっぷりとはまり込み、すっかり世俗の人間に戻ってしまうかもしれません。
「もう、すっかり慣れた世俗の生活から抜け出すことは無理だ」
というわけです。世間の価値観とは、そうしたものです。世間の大多数の人々は、ダンマの価値などちっとも認めていないのです。
 
 ダンマの真の価値は、本の中に見つかるものではありません。そうした知識はダンマを外側から見たものに過ぎず、自分自身でダンマを実感したことにはなりません。ダンマを本当に経験すれば、自分自身の心を理解し、そこに真理を見出すことができます。そして、真理が明らかになれば、煩悩の流れを断ち切ることができるのです。
 
 ブッダの教えは、現在であろうと、他の時代であろうと変わることのない真理です。ブッダは2500年前にこの真理を明らかにし、それ以来ずっとその教えは変わることはありませんでした。ブッダの教えには、付け加えるものも、取り除くべきものも、何もないのです。ブッダはこう言いました。
「如来が説いた教えから、何も取り除いてはならない。如来が説いた教えに、何も付け加えてはならない」
ブッダはこのようにして、教えの範囲を定めました。なぜそのようにしたのでしょう? なぜなら、ブッダの教えというものは、煩悩の無い人の言葉だからです。私たちの世界がどう変わろうと、ブッダの教えが影響を受けることはありません。世の中の多くの人々が「正しい」と言っているからといって、間違っているものが正しくなることはありません。それと同様に、世の中の多くの人々が「間違っている」と言ったからといって、正しいものが間違ったものになることもありません。どれほどの時が流れようと、ブッダの教えが変わることはありません。なぜなら、それは真理なのですから。
 
 では、誰がその真理を創造したのでしょうか? 真理自体が、この真理を創造したのです! 皆さんは、ブッダがこの真理を創造したのではないかと思うかもしれません。ですが、それは違います。ブッダは真理の創造者ではなく、発見者なのです。そして、ブッダは自らが発見した真理を、私たちに伝えたのです。ブッダがこの世に現れようと現れまいと、真理は常に真理です。ブッダは真理と共にありますが、決して彼がダンマを創造したというわけではないのです。ブッダの存在に関わらず、ダンマは常に、私たちと共にあります。けれども、ブッダの誕生以前には、このダンマという「不死への道」を発見し、それを皆に説いた人はいませんでした。ブッダがダンマを発明したのではなく、それは既にこの世に存在したにも関わらずです。
 
 ある時代には、ダンマに人々の注目が集まり、盛んに実践されるようになります。それから幾世代かを経ると、人々がダンマを実践する意欲は衰え、教えも世間から消え去ってしまいます。ですが、またしばらく時間がたつと、ダンマは再び世間の人々に見出され、教えは再興されます。ダンマの実践者は再び増え、その全盛期を迎えたように見えます。けれども、また時の流れと共に、世間の闇の力は強くなり、人々はどんどん堕落していくようになります。世界は再び、混乱に支配されます。しかしながら、時間さえたてば、ダンマが再び光り輝く時が来ます。ダンマが失われることは、決してありません。過去において、諸仏は入滅しましたが、ダンマは諸仏と共にこの世から消え去ることはなかったのです。
 
 世界はこのようにして、循環し続けています。マンゴーの木を想像してみてください。マンゴーの種から木が育ち、花が咲き、実がなり、熟していきます。熟した実はやがて腐り、木から落ちて、その種は土へと還ります。そして、その種からまた、新しいマンゴーの木が育ちます。また、新たな循環が始まったのです。新たな木に熟した実は、また地面に落ち、その種から再び別のマンゴーの木が育ちます。これが私たちの生きる世界の法則です。ただ、決まりきった同じことを繰り返しているだけなのです。
 
 私たちの日々の生活も同じです。今日も、私たちは普段と同じことをしているだけです。世間の人々は、余計なことを考えすぎです。様々なことに興味を持ちますが、どれも完全に満足するには至りません。世間には、数学、物理学、心理学など、多くの学問の分野があります。私たちはそれらを学び、深く探求することはできますが、真理を明らかにするためには、ダンマを学ぶしかありません。
 
 牛が荷車を引いている姿を想像してみてください。牛が歩くたびに、轍が地面にできます。荷車の車輪は丸く、その長さは短いですが、轍は牛が荷車を引く限り、どんどんと伸びていきます。止まっている荷車を見ていても、その轍の長さは分かりません。ですが、ひとたび牛が歩き出すと、轍がずっと伸びていくのが分かります。牛が荷車を引く限り、車輪は回転し、轍は伸び続けます。しかし、いつの日か牛はもう歩けなくなり、荷車の引き具を外す時が来ます。牛は立ち去り、後には荷車が残されます。車輪はもう回りません。やがて荷車はバラバラになり、その部品は地、水、火、風の四大に戻っていくのです。
 
 心の平安を求めながら、私たちは荷車を引くことを止めず、延々と轍を作り続けます。世間の生き方に従う限り、荷車を引くことを止めることはできません。反対に、世間の生き方に従うのを止めれば、荷車は止まり、車輪は回らなくなります。世間の人々と同じ生活をするのなら、車輪の回転を止めることはできません。悪いカルマを作るのも、これと同じようなものです。従来の生活習慣を変えない限り、悪業を積むのを止めることはできません。これまでの生活習慣を変えるのです。それこそが、私たちがダンマを実践する方法なのです。

アチャン・チャー『Living Dhamma』より
 
"Living Dhamma", by Venerable Ajahn Chah, translated from the Thai by The Sangha, Wat Pah Nanachat. Access to Insight (BCBS Edition), 30 November 2013, http://www.accesstoinsight.org/lib/thai/chah/living.html .
 

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