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心のトレーニング(全訳)

アチャン・チャー

●この法話は、1977年3月、バンコクのワット・ボーウォンニウェートで、西洋人の比丘たちに対して語られたものです。
 
 アチャン・マンやアチャン・サオが活躍していた時代の生活は、今日よりもずっとシンプルで、複雑なものではありませんでした。当時の比丘たちは、行うべき義務や儀式がほとんどありませんでした。彼らには僧院のような定住する場所もなく、皆森の中で生活をしていました。ですから、一日中、瞑想の実践に専念することができたのです。
 
 当時は、現在では当たり前のようにある日用品などもなく、贅沢をすることなど考えられませんでした。コップや痰つぼといった身の回りの品は、自分たちで竹から作らなくてはなりませんでした。また、在家信徒が比丘たちのもとを訪れることも滅多にありませんでした。私たちはあるもので満足し、少欲知足の生活を過ごしていました。瞑想さえできれば、それで十分だったのです。
 
 このような生活の中、比丘たちは多くの窮乏を味わいました。マラリアに罹った比丘が、師匠のところへ薬を貰いにいくと、師匠は
「薬など必要ない。ひたすら修行を続けなさい」
と言ったものです。まぁ、実際のところ、その頃は現代のような薬はありませんでしたしね。私たちにあったのは、森に生えている薬草だけでした。こうした環境は、比丘たちの忍耐力と我慢強さを養いました。私たち比丘は、ちょっとした病気などなら、気にも留めませんでした。最近では、ちょっとどこかが悪くなったら、すぐに病院へ行くのが当たり前になっているようですね。
 
 托鉢をするために、10キロ以上歩かなければならないこともありました。夜明けとともに出発をして、帰りは午前11時近くです。お布施をしてもらえるものも少なく、もち米と塩とわずかな唐辛子をいただければ恵まれているほうでした。おかずが無いことは、気にはなりませんでした。そういうものだと思っていたのです。空腹や疲労について、文句を言う比丘はいませんでした。不満を言っても何も解決することはなく、皆、自分でどうにかするしかないと理解していたからです。森の中での生活を通じて私たちは、様々な危険に囲まれながら、忍耐を養っていきました。ジャングルには多くの野生動物や猛獣が生息しており、頭陀行の実践には、肉体的にも精神的にも大変な困難を伴いました。そうした厳しい環境だったからこそ、当時の比丘たちの忍耐力や根気は、今とは比べ物にならないくらいだったのです。
 
 今日では、修行を取り巻く環境も、その頃とは随分変わりました。昔は、旅をするときは徒歩でしたが、そのうち牛車が使われるようになり、現在では自動車で移動をしています。そうして世の中が便利になってくると、だんだん欲も高まってくるもので、最近では車にエアコンが付いていないと嫌がる比丘もいるくらいです。忍耐力や根気といった徳は、現代社会では失われつつあります。瞑想実践の水準も、昔と比べると随分と低いものとなってしまいました。修行の規律も、緩くなっています。最近の修行者は、師匠の言葉より、自分の意見や欲求を重視します。私のような年寄りが、昔日の話をすると、まるで神話か伝説の類でも聞いているかのような顔をしています。そんな話にはまったく興味がないようで、当然理解もしていません。彼らの心には、私の話はまったく響かないのです。
 
 テーラワーダ仏教の伝統では、出家をした比丘は、少なくとも五年間は、師匠と共に過ごさなければならないという決まりがあります。僧院では、聖なる沈黙が推奨されています。瞑想実践に励むときには、極力話すことを控えてください。本を読むのも避けるようにしてください。私たちが読まなければならないのは、本ではなく、自分自身の心です。ワット・パー・ポンには最近、大学を卒業した者たちが大勢、短期出家をするためにやってきます。私は彼らに対して、僧院にいる間は、仏教の本を読むことを控えるようにと、きつく言っています。高学歴の人々は、本を読むのが習慣になっていますからね。彼らは本を読む機会は多くても、自分自身の心を読んだことは、ほとんどないでしょう。ですから、私は彼らがタイの習慣に従って三か月間の短期出家をする際には、本を読むのを止めるようにと言っています。出家期間中は、彼らにとって自分自身の心を読むという、絶好の機会なのですから。
 
 自分の心に耳を傾けることは、とても大切なことです。トレーニングされていない心は、長年の習慣に従って飛び回ります。これまでまったく訓練されたことがなく、未熟な心は、興奮して見境なく、飛び跳ねまくるのです。ですから、私たちは自分の心をトレーニングしなければならないのです。仏教の瞑想とは、私たちの心をトレーニングし、育てるためにおこなうものです。これは私たちの人生にとって、非常に重要なことです。この心を訓練し、育てるということこそが、仏教の核心の部分です。仏教とは、心についての宗教です。心を育てる修行をする人のことを、仏道修行者というのです。
 
 私たちの心は、檻の中に閉じ込められた、荒れ狂う虎のようなものです。この虎は、自分が欲しいものが得られないと暴れまわり、トラブルを引き起こします。私たちは瞑想をすることによって、この虎のような心をコントロールできるようにし、育てなければなりません。ですから、瞑想実践とは「心のトレーニング」のことなのです。心のトレーニングにおいて、最初の段階で重要なのは、戒(シーラ)を守ることです。戒(シーラ)とは、普段の行動や言葉を整え、より調和したものにすることです。ですが、戒(シーラ)を守ろうとすると、心の中で抵抗や混乱が生じることがあります。自分の本能の赴くまま、喋ったり、行動したりすることができないので、心の中に葛藤が生まれるのです。
 
 瞑想実践に励むときには、小食を心掛け、寝る時間もいつもより短くするようにしてください。また、話すことも控えるようにしてください。俗世間で暮らしていた頃に習慣となっていたことがあっても、習慣の力に抗い、極力そうした行為を避けるようにしてください。自分のやりたいように行動するのではいけません。自分の思考というものを、過信しないことです。そうした態度では、思考の奴隷になってしまいますよ。私たちは人間の誰もが持つ、無明(アヴィッジャー)の流れに逆らわなければならないのです。こうした努力を、戒(シーラ)の実践と言います。戒(シーラ)の実践によって自分を律するようになると、私たちの心は不満を感じ、もがき始めます。心に抑圧感を感じるのですね。やりたいように振舞えないことがストレスになり、心に葛藤が生じます。このようにして、苦しみ(ドゥッカ)というものが、私たちの前に姿を現すのです。
 
 この苦しみ(ドゥッカ)は、四聖諦の第一番目にくるものです。ほとんどの人は、この苦しみから逃れたいと思っています。少しの苦しみでも、味わうのは嫌なのですね。ですが、この苦しみ(ドゥッカ)こそが、私たちに智慧をもたらすきっかけとなるものなのです。反対に楽(スカ)は、私たちの目を曇らせ、盲目的にさせる傾向があります。楽(スカ)な環境では、私たちに忍耐力はつきません。楽(スカ)は、私たちを放逸へと導くものです。苦(ドゥッカ)と楽(スカ)は、双方共に煩悩ですが、観察しやすいのは苦(ドゥッカ)のほうです。ですから、私たちは苦(ドゥッカ)を終わらせるという目的のために、苦(ドゥッカ)を観察しなければならないのです。そこで、瞑想実践を始める前に、まずは苦(ドゥッカ)とは何であるかを理解する必要があります。
 
 瞑想を始めたばかりのうちは、特にこのようにして心をトレーニングしなければなりません。まだ初心者ですから、瞑想をしていてどのようなことが起こっているのか、何が重要なポイントなのか、わからないかもしれません。ですから、師匠の指導に忠実に従うことが大切です。忍耐力を持って、実践に取り組んでください。瞑想をしていて何が起こっても、辛抱強く実践を続けてください。例えば、サマタ瞑想に取り組むとき、皆さんは心の静けさを求めるでしょう? しかし、サマタ瞑想を実践したからといって、いきなり心の静けさが得られるわけではありません。なぜなら、皆さんは今までの人生において、そうした瞑想を実践したことがないからです。
「心が静まるまで座ってみよう」
と思って瞑想をしてみても、いつまでたっても心に静寂が訪れない。すると、だんだんイライラしてくるのです。そして、イライラが募り、苦しみが頂点に達すると、瞑想道場から逃げ出すことになります。このような修行では、「心を育てる」とは言えません。それは単に、瞑想道場から脱走したというだけの話です。
 
 そのときの気分に従って行動するのではなく、ブッダのダンマに則って、自分の心を訓練しなければなりません。元々の性格が怠け者であろうと、勤勉であろうと、そんなことはどうでもよろしい。瞑想道場に来たからには、ただひたすら修行に打ち込むのです。皆さんも、そうするのがいいと思いませんか? そのとき、そのときの気分に従って生きていては、ダンマに到達することなど、決してできません。瞑想実践をするのなら、その日の気分になど煩わされず、常に真剣になって実践を続けること。自堕落に生きて、放逸に耽ることは、ブッダの道ではありません。自分の勝手な修行観を持つと、何が正しくて何が間違っているのか、よく分からなくなってしまいます。修行の途上にある私たちは、まだ自分の心をよく理解していません。自分自身を、正しく把握していないのです。
 
 ですから、自分の感情の赴くままに瞑想実践をおこなうのは、結果として修行を遅らせることにつながります。修行をするときには、ダンマに素直に向き合うべきです。怠けたい気分のときも、瞑想を実践します。熱心な気分のときも、瞑想を実践します。いつでも、どこでも気づき(サティ)を実践するのです。これこそが、「心を育てる」ということなのです。
 
 自分の考える修行法に固執すると、様々な疑念が浮かんできます。
「自分は十分な功徳を積んでいないから、修行が進まないのではないだろうか?」
「私は運がないから、修行がうまくいかないのではないだろうか?」
「もう何年も修行をしているのに、悟りを開けない。ダンマを観たことすらない」
こうした態度で修行に取り組むことは、「心を育てる」とは言えません。むしろそれは、あなたの心に「災いを起こす」ようなものです。
 
 もし、修行がうまくいかず、様々な疑念を抱いているのなら、それはあなたが間違った修行法で実践をしているからです。自己流の修行では、ブッダの教えを実践しているとは言えません。ブッダは弟子に対して、このように指導をしました。
「アーナンダよ、たくさん瞑想実践をしなさい! 常に実践を続け、自らを向上させるのです! そうすれば、そなたの疑念(ウィチキッチャー)は消え去るでしょう」
疑念(ウィチキッチャー)というものは、他人と議論をしたり、自分の頭でいくら考えても、消え去るものではありません。もちろん、放っておいたからといって、自然に解決するものでもありません。あらゆる煩悩は、正しい修行法を通じて、心を育てることによってのみ、消え去るものなのです。
 
 ブッダは私たちに、心を育てることを説きました。ですから、その教えは世間の価値観とは正反対であると言えます。世間の人々が追い求めるような煩悩から離れた、清らかな心こそが、ブッダとその弟子たちの追求する道なのです。
 
 ダンマの修行をするのなら、ダンマに対して心から頭を下げなければなりません。ダンマのほうに頭を下げさせるようなことをしてはならないのです。そうした態度で修行をおこなうと、苦しみ(ドゥッカ)が生じる原因になります。この苦しみ(ドゥッカ)から逃れられる人は、誰もいません。ですから、ダンマに対して敬意を持たずに修行をする人は、実践を始めたばかりの頃から、修行がうまくいかずに苦しむことになるのです。
 
 私たち修行者がすべきことは、気づき(サティ)、サマーディ、知足といったものを、養い、育てることです。煩悩に突き動かされる私たちの心を止められるのは、これらの資質のみです。これらの資質だけが、私たちの心の癖に歯止めをかけることができます。ですから、私たちは心を育てなければならないのです。心を育てなければ、私たちの心は本能の赴くままに行動します。そうしないためには、私たちは心をトレーニングしなければなりません。森の木々を思い浮かべてみてください。森の木々を自然のままにしておいたら、私たちはその木を使って家を建てることはできません。自然のままの樹木では、家を建てるための資材にはならないのです。しかし、森から木を伐採し、建築用の木材として加工をすれば、私たちはそれを使って家を建てることができるのです。
 
 私たちの心を育てるのも、この話と同じようなものです。森から木を伐採し、建築用の資材として加工をするように、私たちは自らの心を訓練する必要があります。どんなものでも、最初は野生の状態にあるものです。私たちの野生の心を理解すれば、それを変えていくことができます。そして、執着から離れ、手放すこともできるようになります。そうすれば、私たちはもはや苦しむことはなくなるのです。
 
 私たちの心は、何かに執着し、それを握りしめるとき、イライラし、混乱するものです。修行を始めたばかりの頃、私たちの心はあっちにふらふら、こっちにふらふらとさ迷ってしまいます。こうして心がさ迷い、落ち着かないことに直面すると、私たちは修行なんて無理だと感じ、落ち込むことになります。これは、自分自身の心が持つ性質を理解していないことから生じる苦しみです。心を静めるために瞑想をしていても、やたらと思考が浮かんできたり、感情がムズムズしたりします。私たちの心とは、元々そういうものなのです。
 
 私たちの心を繰り返し観察することによって、「心とは、あるがままのものだ」ということが分かるようになります。心とは、私たちの思った通りになるものではないのです。このことがはっきりと分かれば、自分の思考や感情といったものを手放すことができるようになります。そして、何があっても、
「そういうものだ(心とは、自分の思った通りにならないものだ)」
と自分に言い聞かせ、クヨクヨと余計なことに悩む必要もなくなります。このことが本当に理解できれば、あらゆることを手放せるようになります。思考や感情といったものは依然として生じますが、それらに引きずり回されることがなくなるのです。
 
 このことは、腕白な子どもたちが騒いでいる場合と似ています。はしゃぎまわっている子どもたちは、大人に叱られるまで、大騒ぎするのを止めません。私たち大人は「子どもとはうるさく、はしゃぎまわっているものだ」ということを理解しなくてはなりません。そのことが分かれば、子どもたちがふざけて騒いでいても、放っておくことができるようになります。それで、私たちの悩み事はおしまいです。子どもたちの生き方を受け入れたため、問題がなくなったのです。私たちの見解(ディッティ)が変わったため、物事の自然なありようを受け入れることができるようになりました。見解(ディッティ)に執着せず、手放すことができれば、心は平安になります。それこそが、「正見」というものなのです。
 
 邪見(間違った見解)を持ってしまうと、たとえ洞窟や高所といった僻地で頑張って修行をしても、心が落ち着くことはありません。正見を持ってこそ、私たちの心は安らぐのです。正見を心に抱くとき、私たちの前に解決しなければならない問題は存在しません。もはや問題は、消え去ったのです。
 
 このようにして、私たちは執着を手放すことができるようになります。「心とは、自分の思い通りにならないものだ」ということを理解しているため、どんな感情が生じても、それをそのまま放っておけるようになるのです。そうした感情は、私たちを困らせようと思って生じてくるわけではありません。それはただ、心というものの自然なありようなのです。修行が進んでくると、あらゆるものが、あるがままのものであるということが分かります。手放すことができれば、外界から来る形はただの形、音はただの音、匂いはただの匂い、味はただの味、感触はただの感触、心はただの心と分かり、執着の対象とはなりません。水と油を想像してみてください。この2つのものを瓶の中に入れて振っても、性質が違うため混ざり合うことはありません。それと似たような話です。
 
 水と油が決して混じり合わないように、賢者と愚かな人というのは、まったく異なる存在です。ブッダもまた、私たちと同様に、色・声・香・味・触・法といった刺激に囲まれて生活をしていました。けれども、ブッダは阿羅漢でしたから、色・声・香・味・触・法に惹かれることはなく、むしろそういったものから離れて生活をしたのです。ブッダは、心(チッタ)と思考が別のものであると理解していました。ですから、それら2つのものを混同することは、決して無かったのです。
 
 心(チッタ)は、心(チッタ)です。思考や感情は、思考や感情です。それらはただ、あるがままのものです。形はただ形、音はただ音、思考はただ思考として、放っておくのです。それらのものに、執着する必要はありません。このように考えることができるなら、私たちは心(チッタ)と思考や感情を混同することはなくなります。心(チッタ)と思考や感情といったものは、まったく別のものです。ちょうど水と油のように、同じ瓶の中に入っていても、それらは決して混じりあうことはないのです。
 
 ブッダとその悟りを開いた弟子たちは、世間のまだ悟りを開いていない人々と共に暮らしていました。そして、そのようなまだ悟りを開いていない凡夫たちに対して、悟りを開き、聖者や賢者となるための方法を指導していました。それが可能だったのは、ブッダとその弟子たちが、悟りを開くための方法を知っていたからです。悟りを開くことができないのは、私たちの心に問題があるからだということを、ブッダは理解していたのです。
 
 ですから、皆さんが瞑想を実践する際には、無用な疑念を抱く必要はありません。私たちは妄想に耽るために出家をしたのではなく、世間から離れるために出家をしたのです。皆さんは、世間が怖かったり、臆病だからこの僧院に逃げてきたのではありません。自分自身の心をトレーニングするために、この僧院へとやってきたのです。このことが分かっていれば、正しくダンマを探求することができます。修行が進むにつれ、どんどんダンマは明確になっていくでしょう。ダンマを理解する者は自分自身を理解し、自分自身を理解する者はダンマを理解するのです。今日、世間ではダンマは失われつつあり、形式的なものだけが残っている状態になっています。けれども、本当のことを言えば、ダンマはあらゆる場所にあるのです。ですから、私たちは世間を恐れて、どこかへと逃げる必要はありません。もし逃げるのなら、智慧を使って逃げてください。智慧の力によって、世間から脱出するのです。もしくは、善行為の力によって、世間から脱出しても構いません。決して、無知(モーハ)による衝動によって、世間から逃げ出さないように。心の平安を望むのなら、智慧(パンニャ)によってもたらされる平安を求めるべきなのです。
 
 私たちがダンマを見るとき、そこにはいつも八正道があります。心(チッタ)は、心(チッタ)です。煩悩は、煩悩です。私たちが煩悩に執着せず、心(チッタ)と煩悩を一体のものと考えなければ、それらはただ、あるがままのものにすぎません。八正道を歩んでいるのなら、人生には何の問題も無いはずです。そして、毎日の生活には常に、開放感と自由が感じられるはずです。
 
 ブッダはこのように説かれました。
「比丘たちよ、よく聴きなさい。そなたたちは、いかなる現象にも執着してはいけません」
現象とは何でしょうか? この世界のあらゆるものが現象であり、そうでないものはありません。愛情と嫌悪も現象です。楽(スカ)と苦(ドゥッカ)も現象です。好きと嫌いも現象です。この世界のどんな些細な物事でも、それは現象なのです。ダンマを実践し、それを理解したときのみ、私たちはそれらの現象への執着を手放すことができるようになります。このようにして、私たちは「いかなる現象にも執着しない」というブッダの教えを実践するのです。
 
 私たちの心身に生じるいかなる状態も、常に変化し続けるものであると、ブッダは説きました。そして、ブッダはそれらのいかなるものにも執着すべきではないと、指摘をしました。私たちは、あらゆる条件付けられたものから離れるために修行をするのであり、何かを得るために修行をするのではない、というのがブッダの教えなのです。
 
 ブッダの教えに従えば、私たちは正しい道を歩むことができます。しかし、ブッダの道を歩むのは、容易なことではありません。それは、ブッダの教えの側に問題があるのではなく、私たちの煩悩の側に問題があるのです。私たちの人生に問題を引き起こすのは、ブッダの教えではなく、常に煩悩です。ブッダの教えを実践することによって問題が引き起こされることは、決してありません。何かに執着することは、必ず苦しみを引き起こします。けれども、ブッダの道に執着をしても、私たちは苦しむことはありません。なぜなら、「ブッダの道」とは、あらゆる現象を「手放す」ことなのですから!
 
 仏教瞑想の究極の極意は、「放っておく」ことです。いかなるものであれ、握りしめてはいけません。「善」や「正義」といった概念にも、執着してはいけません。ここで「放っておく」という表現を使いましたが、これは何も修行をしなくてもいい、という意味ではありません。「放っておく」ということを実践する必要があるわけです。ブッダは、修行を完成させるために、私たちの心身を含めた、あらゆる現象を観察することを説きました。私たちが観察すべきダンマ(現象)は、どこか他の場所にあるわけではありません。今、ここにあるのです! 自分の心と身体を観察することを通じて、私たちはいつでも修行をすることができるのです。
 
 ですから、私たち瞑想実践者は、いつでも熱心に瞑想に励まなくてはなりません。瞑想は、私たちの心を、より明るく、自由なものとします。善い行いをしても、それに執着せず、手放すことです。悪い行いを控えることができたときも同様です。そのことに執着せず、手放すようにしてください。ブッダは私たちに、「今、ここ」という瞬間に生きることを説きました。私たちは、過去や未来の中で生きてはならないのです。
 
 私たちにとって、最も理解するのが難しいのが、この「手放す」「放っておく」、もしくは「無心で行動をする」という教えです。このような修行方法の説き方を、「真理の言葉」と言います。こうした「真理の言葉」を、俗世間の発想で受け止めてしまうと、「何をしてもいいのだ」と思ってしまいがちです。しかし、それは本当の意味ではありません。本当の意味は、このようなものです。まず、重い岩を背負っている場面を想像してみてください。岩を背負い続けていれば、その重さで疲れてきます。それで、岩を地面に置きたいのですが、どうやって降ろせばいいのかわからない。それで、ずっと我慢をして、重い岩を背負い続けているのです。誰かに、
「背負っている岩を、地面に置けばいいじゃないですか」
と言われても、
「この岩を手放したら、私には何も残らない!」
と返答をしてしまう始末です。せっかく誰かが、背負い込んでいる重荷を降ろせば楽になるとアドバイスをしてくれても、私たちはそれを信じないのです。そして、
「この岩を手放したら、私には何も残らない!」
と信じ続けます。そうして、私たちは最後まで重い岩を背負い続け、完全に体力が尽きて地面に崩れ落ちる段階になって、ようやく岩を手放すのです。
 
 岩を手放したおかげで、私たちはとても楽になります。これが、「手放す」ことの恩恵なのです。身体は楽になり、岩を背負っていることがどれだけの重荷であったか、自分自身で理解をします。岩を手放す前は、手放すことのメリットが理解できなかったのですね。ですから、誰かが「手放す」ことの素晴らしさを説いても、まだ悟っていない人にとっては、その魅力が理解できないわけです。ですから、ただやみくもに重い岩を背負い続け、もう立っていられなくなるまで、その岩を手放そうとはしません。実際に岩を手放してみれば、手放すことのメリットを、自分で実感できます。人生において、再び重荷を背負うことになるかもしれませんが、手放すことの利点を知っているため、今度は前回より楽に手放すことができるはずです。重荷を背負い続けるのは、無益なことです。「手放せば楽になる」ということを理解することは、「自分自身を知る」ということの一例だと言えます。
 
 私たちが大事に抱えている、自己(アッター)というものも、その重い岩と同じです。ですから、私たちが我(アッター)を手放そうとするとき、岩を手放すのと同じように、
「この我(アッター)を手放したら、私には何も残らない!」
と不安になるのです。けれども、思い切って我(アッター)を手放してみれば、無執着から生まれる喜びや安らぎを、自ら実感することができるのです。
 
 心のトレーニングをするときには、賞賛されることにも、非難されることにも、執着してはいけません。世間の人々は、非難されるのは嫌で、賞賛されることだけを望むでしょう。しかし、ブッダの道を歩むものなら、賞賛であれ、非難であれ、それが適切なものなら、受け入れるべきです。子育てをすることを想像してみてください。子育てをするとき、ただ叱るだけではうまくいきません。なかには、子どもを叱りすぎて駄目にしてしまう親もいます。賢い親は、叱るべきタイミングと、褒めるべきタイミングを心得ているものです。私たちの心も、それと同じです。理性を活用し、自分自身の心をよく知るようにしてください。そして、心を慎重に取り扱うのです。そうすれば、あなたの心のトレーニングは、うまくいくことでしょう。心を育てることによって、私たちの苦しみ(ドゥッカ)は消え去っていきます。なぜなら、苦しみ(ドゥッカ)とは、私たちの心の中に存在するものなのですから。苦しみ(ドゥッカ)とは、私たちの心の中で生まれ、心の中で消えていくものなのです。
 
 私たちの心の仕組みとは、このようなものです。善い考えが生じることもあれば、不善な考えが生じることもあります。私たちの心は、欺瞞に満ちています。ですから、安易にそれを信じてはいけません。信じる代わりに、自分の心をしっかりと観察してください。そして、そのありのままの姿を受け入れるのです。心の状態は、その時その時で、ただあるがままに生じているものにすぎません。それが善であろうと悪であろうと、ただあるがままに生じているだけなのです。ですから、その特定の心の状態を握りしめ、執着しなければ、何の問題もありません。ですが、特定の心の状態に執着してしまえば、そのことによって、私たちは苦しむことになるでしょう。
 
 私たちに「正見」が備わっているとき、そこには安らぎのみがあります。そのとき、サマーディも智慧(パンニャ)も自然と生じます。どこに座っていようが、寝転んでいようが、心は常に穏やかです。
 
 今日、皆さんは法話を聴くためにここにやって来ました。いくつかの事柄は理解できたかもしれませんが、理解できなかった話もあったことでしょう。皆さんが理解しやすいように、今回は瞑想実践のポイントを中心にお話をさせていただきました。私の話が正しいと思うかどうかにかかわらず、ご自身の実践に取り入れて、よく観察をしてみてください。
 
 今では、私はこの僧院で瞑想を指導する立場にあります。私はずっと、法話を聴く立場になってみたいな、と思っていました。なぜなら、私はいつでもダンマを説く立場であって、聴く立場ではなかったからです。ですから、今、皆さんが瞑想指導者から法話を聴くことができるということは、大変恵まれたことなのです。法話を静かに座って聴いていると、時間の経つのがとても早く感じるものです。私たちはダンマに飢えているから、熱心に聴きたいと思うのですね。他人に法話をするのは、最初は楽しいですが、そのうちに喜びは消えていきます。段々、退屈になってくるのですね。そんなときはむしろ、自分から話すより、他人から法話を聴きたくなってくるわけです。特に自分の師匠から話を聴くと、修行上の多くの気づきもあるでしょうし、理解するのも容易だと思います。特に歳を取ってダンマに飢えているときには、その味は格別なものであるに違いありません。
 
 師匠となったら、あなたは他の比丘たちの模範とならなければなりません。弟子たちの手本となるのです。責任ある立場ですから、自分を見失うようなことがあってはなりませんし、自分中心に物事を考えてもいけません。もし、そのような考えが生じたら、そうした考えを手放すようにしてください。そのようにすれば、自分自身に気づいている人になれます。
 
 ダンマを実践する方法には、様々なものがあります。瞑想について語られることには、切りがありません。修行において、私たちに疑(ヴィチキッチャー)を抱かせるものは、たくさんあります。そうしたものに出会っても、執着することなく、すべて手放してください。そうすれば、疑(ヴィチキッチャー)に囚われることは決してありません。正見と共にあれば、どこに座っていようと、歩いていようと、いつでも心に安らぎがあります。どこにいようと、常に気づき(サティ)を絶やさないようにしてください。座っているときや、歩いているときだけが、瞑想の場ではありません。どこにいようと、気づき(サティ)の実践に励むべきです。常に、気づき(サティ)と共にあることが大事です。自らの心身を常に観察していれば、あなたはそこに「生」と「死」を見出すことでしょう。しかし、それらに動揺することはありません。それらを含め、あらゆることが起こっても、放っておけばいいのです。心に愛情が生じても、放っておいてください。そうすれば、愛情は自然と元に居た場所へと帰っていきます。心に欲(ローバ)が生じても、放っておいてください。そうすれば、欲(ローバ)は自然と元に居た場所へと帰っていきます。それらには、必ず元に居た場所というものがあるはずです。それなら、その場所へと帰ってもらえばいいだけのことです。いかなる感情も、握りしめてはいけません。もし、このように修行を続けていくのなら、あなたの心は「空き家」のようになるはずです。別の表現で言うなら、心がくうになったと言ってもいいでしょう。心があらゆる悪から離れたとき、心は自然とくうになります。これを「くうなる心」と言います。この場合、空は「何もない」という意味ではありません。「空なる心」に悪は存在しませんが、智慧(パンニャ)は満ち溢れています。私たちの心が空になったとき、何をするときでも、智慧を持っておこなうことができます。考えるときも、食事をするときも、智慧と共にあることが可能になるのです。
 
 これが、今日皆さんに伝えたかった教えです。この法話は、テープに録音され、記録されています。法話を聴いて、心が安らいだのなら、それで十分です。何も覚える必要はありません。こんなことを言うと、驚く人もいるかもしれません。心を穏やかにして、ただ法話に耳を澄ませていると、私たちの心は自然とテープレコーダーのようになっていきます。ですから、後になって内容を思い出そうとすると、細部に至るまですべて思い出せるのです。法話の内容を、何も覚えていないのではないかと、心配になる必要はありません。皆さんの心の中のテープレコーダーのスイッチを入れれば、法話の内容をすべて思い出せるはずです。
 
 比丘を含むすべての方々に、この法話を贈ります。皆さんの中には、タイ語が少ししか分からない人もいるかもしれませんが、そんなことは少しも問題ではありません。皆さんが、どうか「真理の言葉」を学べますように。私たちの人生においては、それが理解できれば十分なのです。

アチャン・チャー『Bodhinyana』より
 
"Bodhinyana: A Collection of Dhamma Talks", by The Venerable Ajahn Chah, (Phra Bodhinyana Thera). Access to Insight (BCBS Edition), 1 December 2013, http://www.accesstoinsight.org/lib/thai/chah/bodhinyana.html .
 

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