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仏法の道を歩む(全訳)

アチャン・チャー

 私たちは、長老方をはじめ、非常に多くの情報源からブッダの教えについて学びます。ですが、ダンマの説きかたは、人によって様々な個性や特徴があります。ですから、修行者によっては日常生活でどのように実践していけばいいのかわからない、といったケースもあるかもしれません。また、指導者によっては、パーリ語や難しい仏教用語を用いて説法をする人もいます。経典の逐語的な解説などは、特に難しく感じられることでしょう。ですから、ダンマの教えを聞く際には、曖昧すぎず、難解すぎるものでもない、丁度いいバランスのとれた教えを聞くのがよいのです。聞いた側が理解でき、実践してみてその利益を実感できる教えが、丁度いいバランスの教えだと言えます。今日の法話では、私がこれまで弟子たちによく説いてきた教えを紹介したいと思います。この法話が、皆さんの修行の役に立つことを願います。
 
ブッダダンマの道を歩む者
 
 ブッダダンマ(仏法)の道を歩む者は、まず、土台となる信(サッダー)を持たなければなりません。最初に、ブッダダンマ(仏法)という言葉の意味を説明しましょう。
 
ブッダ 一切智者であり、心が清らかで輝き、平安に達している人のこと。
 
ダンマ 戒(シーラ)、定(サマーディ)、慧(パンニャ)から生じる、心の清らかさ、輝き、平安といった性質のこと。
 
 したがって、ブッダダンマ(仏法)の道を歩む者とは、戒(シーラ)、定(サマーディ)、慧(パンニャ)を学び、それらを育てる人のことだと言うことができます。
 
ブッダダンマの道を歩む
 
 外出している人が、自分の家に帰ろうと思ったのなら、ただ座っているだけではいけません。一歩一歩、正しい方向へと歩みを進めることによって、ようやく我が家へとたどり着けるのです。間違った道を進むと、沼地などの障害物にぶつかったり、危険な目に遭ったりするかもしれません。そんなことになれば、家にたどり着けない可能性もあります。
 
 家に帰りついた人は、リラックスして眠りにつくことができます。我が家とは、心身ともに快適に過ごせる場所です。この時、本当に家に帰りついたのだと言うことができます。しかし、せっかく家のそばまで遥々歩いてきても、その前を通り過ぎてしまったり、家の周りをうろうろ歩くだけだったら、苦労をして歩いてきた意味がありません。
 
 この話と同じように、ブッダダンマの道を歩むことは、私たち一人ひとりが自ら取り組まなければならないことであり、人任せにすることはできません。ブッダダンマの道を歩むこととは、具体的には、戒(シーラ)、定(サマーディ)、慧(パンニャ)という三学の道を歩むことを意味します。三学の道を歩めば、その結果として、心の清らかさや安らぎといった境地に達することができます。経典や本を読んだり、法話を聞くだけでは、たとえ何百回生まれ変わろうと、心の清らかさや安らぎといった境地に達することはできません。それでは、ただ時間を浪費するだけで、修行の本当の成果を得ることはできないのです。瞑想指導者は、私たちにただ道を指し示すだけの存在です。瞑想指導者の話を聞いたうえで、自ら修行に励むか、それによって修行の成果を得るかどうかは、あくまでも私たち一人一人に委ねられているのです。
 
 このことは、医者が患者に与える薬に譬えることもできます。薬の瓶にはその使用法が詳しく書かれていますが、実際に薬を飲まなければ、何百回使用法を読んでも、患者は死んでしまいます。それでは、薬の効果を得ることはできません。そして、死の直前に、あの医者はやぶ医者だった、あの薬は効果がなかったと、不平を漏らすことになるのです。彼は医者や薬に文句を言いますが、彼の病気が治らなかった原因は、薬の使用法を読んでいるだけで、実際に飲まなかったことにあるのです。彼は、医者のアドバイスに従って、薬をきちんと飲むべきだったのです。
 
 医者のアドバイスに正しく従い、処方された薬を正しく服用すれば、病気は治ります。重病ならたくさんの薬を飲むことが必要ですし、軽症なら薬は少なくてすみます。重病の時にたくさんの薬が必要なのは当然の道理であり、よく考えてみれば誰でも理解できることです。
 
 医者は、私たちの病気を治すために薬を処方するのです。それと同様に、ブッダの教えとは、私たちの心の病気を治し、本来の健康な状態に戻すために処方されるものなのです。ですから、ブッダは私たちの心の病を治す医師であるとも言えます。実際のところ、ブッダは世界一の名医なのです。
 
 私たちは誰しも、心の病に罹った患者のようなものです。心の病に効く最良の薬は、ダンマです。ブッダダンマの道を歩むのは、私たちの「身体」ではありません。私たちは「心」で、その旅を歩むのです。ブッダダンマの道を歩む者を、次の3つのグループに分けることができます。
 
第一のレベル
 自分自身が修行をしなければならないことを理解し、その修行法を知っている人々のグループです。彼らは、ブッダ、ダンマ、サンガの三宝に帰依し、仏教の教えに従って、熱心に修行をすることを決意しています。単に習慣や伝統にしたがって仏教の教えに触れているのではなく、理性によって世界の本質を自分自身で考察している人々です。このグループの人々を「仏道実践者」と呼びます。
 
第二のレベル
 ブッダ、ダンマ、サンガの三宝に対する揺るぎない確信を持つまで、修行に励んだ人々のグループです。彼らは、私たちを取り巻く複雑な現象の本質を理解する、智慧(パンニャ)を持っています。一般の人々に比べ、物事への執着心がとても少なくなっています。物事を頑なに握りしめてしまうことはなく、ダンマに対する深い理解に達しています。智慧と無執着の度合いによって、彼らは預流果、一来果、不還果の三段階に分類されます。また、「聖者」と総称されることもあります。
 
第三のレベル
 修行によって、身・口・意による行為をブッダと同じレベルまで高めた人々のグループです。彼らは、私たちと同様に世間の中で暮らしながら、同時に世間を超越した存在です。彼らの心には、もはや欲や執着は存在しません。彼らは、聖者の最高段階である、「阿羅漢」または「修行完成者」と呼ばれます。
 
戒(シーラ)の清浄
 
 戒(シーラ)とは、身体による行為と自らの言葉を制御するためにあるものです。厳密に言うと、在家信徒のための戒(シーラ)と比丘の守る律は別のものです。ですが、双方ともに「意図」が重要であるという性質は同じです。私たちが気づき(サティ)や正知(サンパジャンナ)の実践をしているとき、そこには正しい意図が生じています。ですから、気づき(サティ)や正知(サンパジャンナ)の実践をすることによって、私たちは戒(シーラ)を養うことができるのです。
 
 汚れた服を着て、身体が汚れていれば、心も不快になり、暗くなるのは自然なことです。けれども、身体をきれいに保ち、清潔な服を着ていれば、心も明るくなるものです。それと同様に、戒(シーラ)を守らなければ、身体的な振る舞いや言葉も汚くなり、心も物憂げな、暗い状態になってしまいます。正しい道から逸れてしまうと、私たちの心の中にある、ダンマの本質に触れることができなくなってしまうのです。善い言葉や行動ができるかどうかは、心が正しく訓練されているかどうかにかかっています。ですから、私たちは心を正しく育てることが必要なのです。
 
サマーディ(定)を養うための修行
 
 サマーディ(定)を養うための訓練をすることによって、心をしっかりと安定させることができるようになります。安定した心は、私たちに平穏をもたらします。通常、訓練をされていない私たちの心は、動き回り、落ち着きがなく、コントロールすることが難しいものです。水が高い所から低い所へと流れるように、あちらこちらへと雑念に振り回されているのが、私たちの日常です。ですが、世間でも農家の人々やエンジニアは、水の流れをコントロールして、私たちがより便利に使えるようにする方法を知っています。現代の科学では、水をせき止め、巨大な貯水池や運河を作ることも可能です。こうした技術は、水の流れをコントロールし、より利用しやすくするためのものです。さらに現代では、ダムに貯めた水によって、発電をすることも可能になっています。これは、水の有効活用であると言えます。
 
 水の場合と同様に、常に訓練され、正しくコントロールされた心は、私たちに計り知れない利益をもたらします。ブッダもまた、
「よく訓練された心は、私たちに真の幸福をもたらします。最上の幸福を得るために、心をよく訓練しなさい」
と説かれました。私たちの周りにいる象、馬、水牛などの動物も、仕事に役立つようになるには訓練が必要です。動物たちは調教されて初めて、その能力が私たち人間の役に立つようになるのです。
 
 それと同じように、よく訓練された心は、訓練されていない心に比べ、何倍もの利益を私たちにもたらしてくれます。ブッダもその弟子たちも、最初は私たちと同じような、未熟な心の持ち主でした。しかし、修行の結果として悟りを開き、今では私たちの尊敬の対象となっています。その教えによって、私たちがどれほどの恩恵を受けているか、想像もできないほどです。実際に、心を訓練することによって、解脱に達した人々から、私たちの世界にどれほどの恩恵がもたらされたかを考えてみてください。適切な訓練によってコントロールされた心は、どんな仕事に就いていて、どんな状況にあっても、私たちの助けとなるものです。よく訓練された心は、バランスのとれた日常生活を可能にし、普段の仕事をしやすくするものです。心を育てれば、より理性的になり、間違った行動をとることが少なくなります。心を育てるほど、私たちの日常生活が幸福になることは、間違いありません。
 
 心の訓練は、様々な方法でおこなうことができます。その中でも最も有効的で、誰でも実践できるものが、「アーナパーナ・サティ」です。アーナパーナ・サティとは、呼吸に対する気づき(サティ)を養う瞑想のことです。この僧院では、鼻の先に注意を集中し、「ブッドー」という言葉と共に、吸う息、吐く息に気づき(サティ)を向けます。皆さんが実践をするときには、「ブッドー」以外の言葉を使っても、言葉を使わずにただ呼吸の出入りに気づき(サティ)を向けるのでも構いません。自分に合うように、調整して実践するのがいいでしょう。アーナパーナ・サティで重要なことは、今この瞬間の呼吸に意識を向けることであり、吸う息、吐く息の一つ一つに気づく(サティ)ことなのです。歩く瞑想をするときには、足が地面に触れる感覚に、常に気づく(サティ)ようにしてください。
 
 瞑想実践の結果を得るためには、継続的な取り組みが必要です。たまたまある一日に、短時間だけ瞑想をして、一週間、あるいは一か月後にまた瞑想をするようでは、意味がありません。それでは成果を出すことは不可能です。ブッダは私たちに、熱心に瞑想実践に取り組むことの大切さを説かれました。ですから、瞑想実践はできるかぎり継続しておこなう必要があります。また、瞑想をおこなう際には、邪魔の入らない、静かな場所で実践するのが好ましいでしょう。裏庭の木陰など、一人になれる場所が瞑想実践に適しています。比丘であれば、静かな森や洞窟、クティなどといった場所が瞑想に向いています。人里離れた山奥などは、最適の修行環境と言えるでしょう。
 
 いずれにせよ、どこにいても、絶えず呼吸に気づけるよう、努力しなければなりません。もし、他のことに注意を奪われたら、気づきを呼吸に引き戻すように。呼吸による気づきを実践する際には、他の考えや心配事をすべて手放すようにしなければなりません。何も考えず、ただひたすら呼吸を観察し続けてください。思考が生じたらすぐにそれに気づき(サティ)、呼吸に意識を戻し続ければ、心はだんだんと静かになっていくことでしょう。心が穏やかで集中した状態になったら、呼吸とは別のものに気づき(サティ)を向けます。呼吸の次に気づき(サティ)の対象とするのは、色・受・想・行・識という五蘊からなる、私たちの心と身体です。五蘊が生じては滅する様子を観察してみてください。そうすると、五蘊は無常であり、無常であるがゆえに不満足(ドゥッカ)であることが分かります。そして、五蘊は自ら去来するものであり、その中には「我」という実体が無いことも、はっきりと理解できるでしょう。そこにあるのは、原因と結果という因果法則だけなのです。この世のすべてのものは、不安定(アニッチャ)、不満足(ドゥッカ)、永続する実体は無い(アナッター)という性質を持っています。このように世の中を観察すると、五蘊への執着は次第に減っていきます。それは、世界の真の姿を知ったために起こったことです。私たちはこれを、「智慧(パンニャ)が生じた」と呼んでいます。
 
智慧(パンニャ)の現れ
 
 私たちの心と身体に生じる様々な現象の本質を見抜く力が、智慧(パンニャ)にはあります。十分に集中し、訓練された心で五蘊を観察すれば、私たちの心も身体も無常、不満足(ドゥッカ)、無我であることがはっきりとわかります。どんなに複雑に見える現象でも、智慧(パンニャ)によって観察すれば、私たちはそれに執着することはありません。何かを得ることがあっても、気づき(サティ)をもって対処します。そのことによって、過剰に喜んだりすることはありません。自分の持ち物が壊れたりなくなったりしても、落ち込んだり、それによって苦しんだりすることもありません。あらゆる現象は無常であるとはっきり理解しているので、動揺することがないのです。病気や苦痛に遭遇したときに平静でいられる人は、心がよく訓練されているといえるでしょう。私たちの真の帰依所(避難所)とは、よく訓練された心なのです。
 
 これが、現象の真の姿を見抜く智慧(パンニャ)です。智慧(パンニャ)は、気づき(サティ)とサマーディ(定)から生まれ、サマーディ(定)は戒(シーラ)を土台として生じます。このように、戒(シーラ)、定(サマーディ)、慧(パンニャ)は一体のものであり、分けて考えることはできません。ですから、瞑想実践では次のように修行を進めます。まず、呼吸による気づき(サティ)を実践します。そのことによって心が訓練されると、自然と戒(シーラ)を守ることができるようになります。継続的に呼吸による気づきの実践を続けると、サマーディ(定)が育っていきます。さらに呼吸による気づきの実践を続けていくと、呼吸が無常であり、不満足(ドゥッカ)、無我なものであるとわかり、物事に対して無執着になります。このように、呼吸による気づきの瞑想は、戒(シーラ)、定(サマーディ)、慧(パンニャ)を育てることのできる実践方法であると言えます。それらはすべて、一体となったものなのです。
 
 ブッダが説いた八正道は、私たちが苦しみ(ドゥッカ)から抜け出すことのできる、唯一の道です。そして、八正道の実践とは、戒(シーラ)、定(サマーディ)、慧(パンニャ)の三学を育てることなのです。八正道を正しく実践すれば、涅槃に至ることができます。ですから、八正道は他のいかなる修行法に比べても、優れていると言われるのです。八正道の実践は、ブッダダンマ(仏法)の実践そのものです。
 
瞑想実践の成果
 
 瞑想実践を継続していくと、次の3つの段階の成果に到達することができます。
 
 第一のステージは、「仏教に対する信(サッダー)が確立すること」です。具体的には、仏・法・僧の三宝への信頼が確実なものとなります。この信(サッダー)は、修行を進めていくにあたって、各人の心の拠り所となるものです。また、善い行為は善い結果を生み、悪い行為は悪い結果を生むという、因果の法則も理解できるようになります。ですから、このステージに達した人は、心の安らぎと、幸福感に包まれて日々を過ごすことができるようになります。
 
 第二のステージは、「預流果、一来果、不還果といった聖なる境地に達すること」です。このステージに達した人々は、仏・法・僧の三宝に対して、揺るぎない信頼を抱いています。彼らの心には常に喜びがあり、涅槃への道を確実に進んでいます。
 
 第三のステージは、「阿羅漢」と呼ばれます。阿羅漢は、すべての苦しみから解放された存在です。阿羅漢とは修行の完成者であり、世間(ローカ)を超越した覚者なのです。
 
 私たちは人間として生まれ、ブッダの教えを聞くことができるという幸運に恵まれています。これは、他の何百万もの生命には与えられていない、かけがいのない機会です。ですから、放逸であったり、不注意であったりしてはいけません。早速今日から、功徳を積み、善行為をおこなってください。一歩一歩、修行の道を歩むのです。目的もなく、ただ時間を無駄に過ごすようなことがあってはいけません。今日にでも、ブッダが発見した真理に到達するくらいの勢いで、修行に励んでください。最後に、ラオスの民族に伝わることわざを紹介して、この法話を終えたいと思います。
「愉快で楽しい生活にかまけていても、やがて誰にでも夜は訪れる。今は涙に酔っていて気づかないかもしれないが、すぐに分かるだろう。もはや、旅の終着点にたどり着くには、手遅れだと」

アチャン・チャー『Bodhinyana』より
 
"Bodhinyana: A Collection of Dhamma Talks", by The Venerable Ajahn Chah, (Phra Bodhinyana Thera). Access to Insight (BCBS Edition), 1 December 2013, http://www.accesstoinsight.org/lib/thai/chah/bodhinyana.html .
 

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