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今すぐ瞑想を始めましょう!(全訳)

アチャン・チャー

●この法話は、1978年7月、雨安居に入る当日、ワット・パー・ポンで新たに出家をした比丘たちに対して、ラオスの方言で語られたものです。
 
 吸う息、吐く息に気づき(サティ)を向け続けてください。たとえ誰かがあなたの目の前で逆立ちをしたとしても、そんなことはあなたには関係のないことです。そういったことに、煩わせられないようにしてください。ただ、吸う息、吐く息に集中し、呼吸に気づく。それだけで十分です。それ以外のことは、何もしなくて結構です。もしそうしたほうがやりやすいなら、息を吸うときに「ブッ」、吐くときに「ドー」と自分に言い聞かせても構いません。その言葉を、気づき(サティ)の対象とするのです。そのようにして、しばらく実践を続けてください。息が入ってきたらそれに気づき、息が出ていったらそれにもまた気づくのです。そうしてしばらく続けていると、私たちの心は落ち着き、乱れることがなくなります。ただ、息が出入りするのみです。
 
 瞑想実践を始めたばかりのときは、あまり余計なことはせず、これくらいシンプルに取り組むのがいいのです。どんなに長く座っていても、心がサバーイ(快適な、リラックスした)な状態なら、自分で分かるはずです。呼吸への気づき(サティ)を続けていると、やがて呼吸は穏やかになっていき、心も身体もリラックスしていきます。いい傾向ですね。自然な修行を心掛けてください。座っているときは、いつもサバーイで。ただし、これはボーっとしたり、居眠りをしてもいいというわけではないですよ。無理をせず、自然な形で瞑想実践を続けるということです。さぁ、すっかり心は穏やかになりました。瞑想をやめて立ち上がると、皆さんは
「今のは一体何だったんだろう?」
と、その心の穏やかにさについて考えずにはいられないでしょう。
 
 常に、明晰な気づき(サティ)を保つようにしてください。自分自身を知るのです。何かを話すとき、どこかへ行くとき、托鉢のとき、鉢を洗うとき、食事をするとき、自分の一挙手一投足に気づくようにするのです。気づき(サティ)の実践をコツコツと地道に続けること! 何をするときにも、常に気づき(サティ)と共にあるようにするのです。
 
歩く瞑想
 
 2本の木の間にある、腕の長さ7、8本分のまっすぐな道な道を選んでください。その距離を歩きながら、気づき(サティ)の瞑想を実践します。歩く瞑想によっても、座る瞑想と同じようなサマーディが得られます。歩く瞑想を始める前に、この瞑想を実践することによって気づき(サティ)を育てるのだ、と強く決意をします。人によっては、最初に生きとし生けるものに対して慈悲の瞑想をして、自分の身を危険から守ってもらうようにしてから、歩く瞑想を始める人もいます。怖がりの人もいますから、それはそれで構いません。
 
 まず、右足から歩き始めます。一歩一歩しっかりとした足取りで、「ブッドー」と自分に言い聞かせながら歩きます。歩いている間はずっと、足に気づき(サティ)を向けてください。心がざわついたら、一旦立ち止まります。そして、心が静まったら、また歩き始めてください。歩くプロセスの始まり、中間、終わりと、それらすべてに気づくようにしてください。歩く瞑想の間中、常に気づき(サティ)を保つのです。
 
 瞑想法の説明としては、これだけです。これだけの知識があれば、歩く瞑想を実践できます。世間の人々の中には、
「そんな風に行ったり来たりして、一体何になるんだ? 馬鹿じゃないのか」
という人もいるでしょう。けれども、私たちは歩く瞑想によって、たくさんの智慧(パンニャ)を育てることができるのです。予め定めた道を、何度も往復して、歩く瞑想を実践してください。疲れたら、立ち止まってください。そして、意識を内面に向け、落ち着いて呼吸を観察することによって、心を休ませてください。
 
 ある程度の時間、一つの姿勢の瞑想を実践したら、別の姿勢の瞑想に変えるようにしてください。日常生活でも、私たちは、「立つ」「歩く」「座る」「横になる」など様々な姿勢をとります。ずっと立っている、座っている、横になっていることはできません。ですから、日常生活の中でどんな姿勢をとっているときでも、それを気づき(サティ)の瞑想を実践する機会ととらえ、活かすようにしてください。
 
 では、さっそく瞑想を始めましょう! 実際のところ、瞑想実践は楽な仕事ではありません。ですが、シンプルに言えば、このグラスをここに2分間置いて、それからあそこに2分間置くといった作業みたいなものです。2分おきに、グラスを交互に移動させるのですね。これは一つの例ですが、そのような形で集中して瞑想に取り組んでください。呼吸を観察することも同じです。心の中に疑いや苦しみが生まれてくるくらい真剣に瞑想に取り組むからこそ、智慧(パンニャ)が生まれてくるのです。世間の人々の中には、
「グラスを交互に移動させて、一体何になるんだ? 馬鹿じゃないのか?」
と言う人もいるでしょう。そうした言葉は、気にしないでください。やってみることが大切なのです。そして、5分ごとにグラスを移動させるのではなく、2分ごとだということを忘れずに。集中して、とにかく実際にやってみることが大事なのです。
 
 呼吸を観察する瞑想をするときも同じです。足を組んだ姿勢でバランスよく座り、右足を左足のふとももに乗せます。それから、お腹が膨らむまで息を吸い、肺から空気がなくなるまで吐き出します。それからもう一度、お腹のなかが空気でいっぱいになるまで息を吸い、ゆっくりとそれをすべて吐き出します。それからあとは、意識的に呼吸をコントロールする必要はありません。呼吸がどんなに長くても、短くても問題ありません。呼吸を自然なままにまかせてください。そして、その自然な呼吸を観察してください。呼吸から気づき(サティ)が逸れたら、いったん立ち止まります。そして、心がさ迷ったことを確認し、それから改めて呼吸の観察に戻ってください。
 
 そうして実践を続けていくと、遅かれ早かれ、何らかの手ごたえを感じるはずです。ですから、とにかく頑張って瞑想実践を続けることです。「自分には無理だ」などと思わないでください。瞑想をするのは、田んぼに種を蒔くようなものです。仮に捨てるような感じで種を蒔いたとしても、すぐに芽が出て、稲穂になります。稲を刈り取って、脱穀すれば、おいしいもち米が食べれられるのです。そんなものです。それが、自然の法則というものですから。
 
 座る瞑想をするのも、田んぼに種を蒔くのと一緒です。ただ、座ればいいのです。ときどき、
「私は何のためにここに座って、呼吸を観察したりしているのだろう? 呼吸なんて、勝手に出たり入ったりしているだけなのに」
と思うことがあるかもしれません。何をしていても、私たちはこうやって文句をたらたら言いたくなるものです。ですが、そんな考えは無視してください! 心が静まるまで、頑張って呼吸の観察を続けるのです。心が静まると、呼吸は自然なものとなり、心も身体もリラックスしてきます。あまりにも呼吸が穏やかで微かなものになっているので、息をしていないのではないか、と思うくらいになるまで、実践を続けてください。そこまで呼吸が静まっても、怖がる必要はありません。
「呼吸が止まってしまった!」
と思い込んで、パニックになる必要はないのです。これは心が平安なものとなった証拠なのです。ですから、何もせず、ただそこに座っていればいいのです。これから先も、修行を進めていくうちに、呼吸が止まってしまったように感じられることがあるかもしれません。また、何か他にも、不思議なことを経験することがあるかもしれません。ですが、そうしたことについては、心配する必要はありません。ただ、起きたこと一つ一つに、気づいて(サティ)いればいいだけです。そうすれば、何が起きても惑わされることはありません。
 
 あとは、ひたすら熱心に瞑想実践を続けることです。食事が終わったら、さっそく歩く瞑想を始めましょう。
「ブッドー、ブッドー」
と念じながら歩くのです。瞑想実践のために決まった場所を何度も往復して歩くので、あるいた場所が溝のようにすり減ってくるかもしれません。溝が目に見えて深くなるまで、修行を続けるのです。疲れたら、一旦座って休憩をとっても構いません。体力が回復したら、また歩く瞑想を再開すればいいのです。ただ歩けばいいというものではありません。これは、あくまで気づき(サティ)を育てるための瞑想実践です。散歩でもするように、あれこれと妄想しながらただ歩いて、疲れたらクティに戻って大いびきをかいているようでは、何の意味もありません。そんな態度では、修行の成果なんて絶対得られませんよ。そんなに怠けていては、いつになっても修行は終わりません。怠け者には、仏道修行は向いていません。自分の怠け心を抑えて、一生懸命修行に取り組むのです。心が静まることを期待して座る瞑想をして、すぐに結果が出ないからと諦めてしまうようでは、そもそも瞑想実践にはならないのです。
 
 何事も口で言うのは簡単ですが、実際にやってみると存外難しいものです。
「僧院で瞑想をするのはしんどいなぁ。こんなことなら、畑仕事でもしているほうが楽だ」
といった発言をしばしば聞くことがあります。でも、そんなこと言っている人に限って、農作業をするための牛や農機具についての知識をまったく持っていないのです。口で言うのと、実際にやるのは大違い。このことを、よく覚えておいてください。
 
 皆さんは悟りを開きたいと思っているでしょう? この僧院で、皆さんが求めているものが得られるのです。ですが、あなたたちはまだ何も分かっていません。誰かに悟りについて尋ねても、期待した答は得られないでしょう。ですから、そうした余計なことは考えず、ひたすら、
「ブッドー、ブッドー」
と念じながら、自分の呼吸の出入りを観察すればいいのです。瞑想実践においては、それさえできれば十分です。とにかく精進あるのみです。余計なことをあれこれと考える必要はありません。今はただ、私が説明したことをひたすらやってみてください。
「やってみたけど、何も変わらないなぁ」
そんなことはどうでもよろしい。ただ、実践すればよいのです。瞑想実践の過程で何が起きようと、たゆまず努力を続ける。そうすれば、様々な疑問も自然と氷解していきます。実際に瞑想実践をしてみて、自分の目で確かめてください。こうしてただ座って、自分の身に何が起こっているのか観察をすれば、それで十分です。心が静まってくれば、私の言っていることが理解できるでしょう。一晩中座って瞑想をしていても、座っているということにすら気づかないようになるでしょう。瞑想をするのが、楽しくなってくるのです。他人に説明するのは難しいでしょうが、瞑想をするのが楽しくて仕方がないのですね。
 
 こうして瞑想をするのが楽しくなってくると、他人に瞑想の素晴らしさについて、色々とお説教をしたくなるかもしれません。どうか、そのような「言葉の下痢」をまき散らして、周囲に迷惑をかけることのないように。昔、サンという高齢の沙弥がこの僧院にいました。ある夕暮れの歩く瞑想の時間、近くの竹林で誰かの話す声が聞こえました。
「何たらかんたら。何たらかんたら……」
私は不審に思い、近くで聞き耳を立てていました。
「こんな場所で、誰が説法をしているんだ?」
けれども、男は説法を止めず、延々と話し続けています。そこで、私は懐中電灯を持って、竹林に入っていきました。するとそこには、ランタンの明かりの下で、足を組んで座っているサンがいたのです。サンは独りで、必死に虚空に向かってダンマを説いていました。
「サン、何をそんなに興奮しているんだね?」
と私は尋ねました。
「自分でも止められないのです!」
とサンは言いました。
「座っていようが、歩いていようが、人にダンマを説きたくてしょうがないんです。いつになったらこの気持ちが収まるのか、自分でも分かりません」
本当にサンには困ったものです。しかし、つくづく修行者には色々なタイプの人間がいるものだ、と思いました。
 
 話がそれましたが、結局のところ、頑張って修行を続けるしかないのです。気分によって修行をしたり、しなかったりということでは決して成果は出ません。怠け心が生じたときこそ、奮起すべきです。やる気に満ち溢れているときは、その調子を維持してください。座る、歩く、横になるといった、いかなる姿勢のときでも、呼吸を観察するようにしてください。寝る前には、
「私は眠りの快楽に溺れることはありません」
と自分に言い聞かせるのです。そして、起床をしたらすぐに瞑想を続けます。食事をするときは、
「この食事は欲によって食べるのではなく、一日の命を支えるための薬であり、瞑想を続けるための体力を維持するのに必要だから食べるのです」
と自分に言い聞かせます。寝る前にも、食事をする前にも、このように自分に言い聞かせておくことが重要です。こうしたことを、習慣化してください。立っていても、座っていても、横になっていても、常に気づき(サティ)を絶やさないように。横になるときは、身体の右側を下にして横たわり、
「ブッドー、ブッドー」
と念じながら、眠りにつくまで呼吸の観察を続けてください。そして、目が覚めたらすぐに、まるで一呼吸も止めていなかったかのように、
「ブッドー、ブッドー」
と念じながら、呼吸の観察を再開するのです。そうすれば、必ず平安に至れます。そのためには、常に気づき(サティ)を保つことです。
 
 他人の修行に首を突っ込むことは止めてください。座る瞑想をするときには、バランスを整え、背筋をまっすぐにして座ってください。頭を前や後ろに傾けることも避けてください。身体全体のバランスを保つことが重要です。仏像の姿勢が参考になるでしょう。姿勢を変えるときは、限界まで痛みに耐えてから変えるようにしてください。
「そんなの私には無理だ!」
と皆さんはおっしゃるかもしれません。けれども、身体を動かす前に、一旦停止してみてください。そして、限界まで痛みに耐えるのです。やがて、「ブッドー」と念じるのが辛くなってきたら、今度は痛みそのものを気づき(サティ)の対象としてください。「ブッドー」と念じる代わりに、
「痛み、痛み、痛み」
と念じるのです。そのようにして痛みの観察を続け、その結果どうなるか、自分で体験してみてください。ブッダは、痛みは自ら生じ、自ら消えるものだと説きました。諦めずに、痛みが自ら消えていくのを待ちましょう。もしかしたら、苦痛のあまり、トウモロコシの粒ほどの大きさの汗が、背中を伝うかもしれません。でも、一度でもその痛みを乗り越えれば、その痛みの正体が何なのか分かるはずです。とはいえ、こういった修行の進歩は徐々に進むものです。ですから、今言ったようなことも、無理には行わないでください。修行はゆっくりと進めていけばいいのですから。
 
 食事をするときも、気づき(サティ)を保ってください。私たちが噛んで、飲み込んだ食べ物は、どこへ行くのでしょうか? 気づき(サティ)と共に食事をすると、自分に合う食べ物、合わない食べ物が分かるようになります。そのようにして、食事という行為を洗練させていくのです。そして、あと五口食べたら満腹になるな、と感じたタイミングで、食べるのをやめましょう。それから水分を十分にとって、食事を終えます。こうした食事の方法を、試してみてください。世の中のほとんどの人々は、このような食事の仕方はしません。それどころか、満腹になるまで食べて、さらに五口も食べてしまうのです。しかし、私たち仏道修行者は、そうした食事の仕方をしてはいけないのです。ブッダは、私たちが食事をするときには、気づき(サティ)と共に食べ、まだ満腹ではないが、あと五口食べれば満腹になる時点で気づき、食事を止めるべきであると説きました。そのあと、水を飲めばちょうど満腹になるはずです。そうすれば、その後、歩く瞑想をしても、座る瞑想をしても、身体は軽く、瞑想も自然とうまくいくことでしょう。このように修行にとって良いことばかりであるにもかかわらず、こうした食べ方をほとんどの人はしようとしません。真剣に修行に取り組もうと思っている瞑想実践者にしか、こうした食事法はできないものです。ほとんどの人は、結局、満腹になるまで食べて、また五口くらい食べてしまうような食べ方になってしまうのですね。放逸でいると、自然と欲(ローバ)や煩悩に突き動かされて生きてしまうものです。それは、ブッダの説いた道ではありません。ですから、私たちは常に、自分自身を観察しなければならないのです。
 
 眠るときにも、気づき(サティ)を大切にしてください。寝るときにどのように心掛けるかは、人それぞれでしょう。ときには、いつも通りの時間に眠れないこともあるでしょう。早く寝ようが、遅く寝ようが、どうでもいいです。私も特に寝る時間を決めてはいません。たとえ前の晩に寝るのが遅くなっても、起床時間になったら、サッと起きます。布団の中でグズグズしていてはいけません。起床時間になってまだ眠くても、きっぱりと起きる。そして、顔を洗ってから、すぐに歩く瞑想を始めるのです。厳しいと感じるかもしれませんが、これが修行というものです。
 
 とにかく、瞑想実践というものは、自分でやってみなければ分かりません。人から話を聞いているだけでは、どうにもならないのです。ですから、とにかくやってみてください。これが、心を育てるための、はじめの一歩です。瞑想をするときには、集中して取り組んでください。座って、ただ呼吸が出入りするのを観察するのです。続けていくと、心はだんだんと静まっていきます。心が一点に集中できずに、さ迷っているときには、座ったとたんに家が恋しくなったり、屋台で麺類でも食べたいなぁと思うかもしれません。出家したばかりの頃は、とかく腹が減るものです。あれが食べたい、これが飲みたいと、在家の頃が恋しくなるのです。こうした妄想は、皆さんの頭がおかしくなるまで続くことでしょう。そうなったら、そうなったで、放っておけばいいです。時間が経てば、そうした状態も収まっていくでしょう。
 
 とにかく、頑張って瞑想をするしかありません。これまでに、歩く瞑想をしたことがありますか? 歩く瞑想をしていて、心がさ迷ったら、
「心がさ迷った」
と確認をしてください。それでも心が落ち着かなかったら、我慢できなくなるまで呼吸を止めれば、心は強制的に静まるでしょう。座る瞑想の場合も同じです。座っていて心があちこちさ迷ったら、息を吸って、そのまま吐き出さないでいれば、心は強引に静まります。こうやって、心を育てていくのです。動物を調教するのとはわけが違いますから、心を育てるのは本当に難しいものです。ですから、少々修行がうまくいかなくても、あきらめないでください。ときには、胸が破裂しそうなほど息を止めることによって、心が落ち着くこともあります。ぜひ、試してみてください。
 
 この雨安居の間に、皆さんは瞑想とはどんなものであるか知るでしょう。昼夜を問わず、時間のあるときはいつでも瞑想をしてください。沈黙を守り、昼も夜も歩く瞑想をするのです。この僧院にいる間は、一日中瞑想漬けの生活を続けるのです。
 
 ここに水の入った瓶がありますね。この瓶を少し傾けると、「ポト……。ポト……」と水が滴り落ちていきます。さらに傾けると、水の流れる勢いは増します。私たちの気づき(サティ)というのも、この瓶から滴り落ちる水と同じようなものです。瓶をさらに傾ければ、水道の蛇口から出るような勢いで、水は流れ落ちます。つまり、立っていても、歩いていても、座っていても、横になっていても、常に気づき(サティ)を保つことができるのなら、私たちの気づき(サティ)は、安定した水の流れのようになるのです。水の流れを安定させるためには、勢いよく流すことが必要です。私たちの心も同じです。もし私たちの心がさ迷い、妄想に耽るようなら、ポトポトと滴る水の程度にしか、気づき(サティ)は強まらないでしょう。
 
 瞑想実践についても、同じことが言えます。瞑想をするとき、私たちはついつい考えごとをしてしまったり、集中できなかったりするものです。ですが、そんなことは問題ではありません。ただ、コツコツと継続的に瞑想を実践し続けることが大事なのです。そうすれば、安定した水の流れのように、気づき(サティ)を育てることができます。立っていても、座っていても、横になっていても、どんなときでも、気づき(サティ)と共にあるようにしてください。さぁ、あとは実践あるのみです!
 
 瞑想を頑張っても、すぐに結果が出ないこともあるでしょう。瞑想実践は、あまり根を詰めてやりすぎても駄目ですし、怠けすぎてもうまくいきません。バランスが大事なのです。それを肝に銘じておいてください。瞑想を実践しているつもりはなくても、仕事などが一段落して、ふと座った瞬間に、心がたまたまくうになり、瞬間的に心が平安になることもあります。ですから、あまり難しく考えすぎないでください。
 
 法話はもう十分でしょう。ではさっそく、瞑想を始めてください!

アチャン・チャー『Bodhinyana』より
 
"Bodhinyana: A Collection of Dhamma Talks", by The Venerable Ajahn Chah, (Phra Bodhinyana Thera). Access to Insight (BCBS Edition), 1 December 2013, http://www.accesstoinsight.org/lib/thai/chah/bodhinyana.html .
 

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