基督者である私から見た仏教

一口に仏教と言っても広すぎるかもしれないが、殊に原始仏教においては、この世における緻密な観察から導き出された哲学的な解であると感じる。
だから、私にとっては仏教は異なる宗教という並列・対立するような概念よりも、信仰に対する科学のような位置として捉えている。

信仰と科学とは両立可能である。科学は私から見れば、この宇宙世界の物理的な部分の観察によって得られた解(のはず)である。「のはず」と書いたのは、仮説の段階のものが、まるで定説かのように教えられ、説かれている現状があるからである。たとえば、ビッグバン説にしても、進化説にしても、仮説であり、どこにも動かぬ証拠などはない。仮説をまるで定説のように捉え、その中で理論を構築していっている現状がある。仏教についても同じことで、元来の仏教というものは、この宇宙世界の道理を追求であったものが、世俗信仰とミックスされたりしている現状があると感じる。
科学というのは、仏教でいう、色受想行識の五蘊の色の部分の観察である。そういう意味では、科学の方が仏教よりも小さな範囲を扱っている。

仏教も科学も人間である私たちの観察による知見であるが、これに対して、基督教の福音とは、創造主から私たちへの働きかけである。だから、そもそも扱う範疇が違うものであるという認識である。

しかしながら、最近思う。仏教の天部(天人)とは、神と言われているようであるが、実は基督教でいう天使に相当する存在であると思う。天とは宇宙のことである。そして、天の人、すなわち天使とは、私たちよりも高次元の宇宙人のことである。とりわけ、聖書のいう天使とは、実は日本語では一般に「天使」と言われて「天」がついているが、忠実に訳すならば「御使い」が正しい。「使者」という意味である。つまり、絶対者に遣わされた者が「御使い」なのである。

では、基督教でいう神に当たるものは、仏教では何かというと、阿弥陀であろう。阿弥陀とは、「無限」という意味である。つまり、限りが無い、時空を超越した光の存在、基督教の神に相当する。

興味深いのは、仏教では天地創造がないということ。天地創造とは、すなわち地球の歴史でしかない。仏教は歴史のような移り変わるものには着目せず、不変の真理を追究する。だから天地創造がないのは頷ける。でも、もしかすると、地球を造ったのは御使いかもしれないのだ。企画・設計者は神様だろうけれども、施工・工事をしたのは宇宙人なる天使ではなかろうか。そこは救いには大切ではないので、聖書には詳しく書かれていない。聖書そのものについても、神の言葉と言われるので、著者は神である聖霊であるが、実際に筆をとったのは、複数の人間の福音記者である。

六道や五趣という概念についても、この世であることに着目すれば納得がいく。天使は私たちと同じ被造物なのである。すべては神様がお造りになった世界の内のこと。聖書は、その後の新天地を語るが、それは仏教の範疇からは外れるだろう。

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