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平成の旅路 その2

西暦2004年同じ横浜市内にある私立高校へと無事サッカー推薦でギリギリ高校進学を決めた私ではあったが
高校サッカーを舐めていた。
と言うか既にサッカーに興味すら無かった私は入部初日の練習から新入生全員が足を攣るまで延々と走らされその辛さを全身全霊己の体で分からされる羽目となった。

まず何が一番キツいのかと言うとその練習量の長さである。
最近女子校から共学に変わったという事で元々サッカー部、野球部などの運動部が殆ど存在しなかった我が校のグラウンドは、
サッカーをするには少々どころからかなり狭く、元々女子ハンドボール部などがメイングラウンドを使用していた関係もあって我々男子サッカー部はグラウンドが広い姉妹校がある違う駅まで学校から放課後片道1時間かけて移動して女子サッカー部の活動が終わるのを待ってからやっと部活動開始であり大体18時くらいに始められれば良い方といった具合であった。
毎日部活が終わって帰宅する頃には23時を越すのが当たり前だったが時代とそれを承知で親御さんも部入りさせてるので特にクレーム等は無かった。

練習内容の中で特に今でもたまに夢に見るほどトラウマかつ大嫌いなメニューは当然走りの練習であった。
ただひたすらに走らされる。サッカー部なのにボールもほとんど蹴らして貰えず取り敢えず走り込みの連続であった。
今思えば我が校には陸上部も無かったのでそれも兼任させられていたのかもしれない。
実際に走りすぎて体力がつき過ぎてしまい
大学では駅伝に出場した部員さえいる。

部員全員には連帯責任という重い鎖を課され、誰か一人でも設定タイムに入れないとすぐさまもう一度おかわりという名の無限走り地獄に陥ることとなる。
他にも誰かが学校に遅刻したりユニフォームを忘れたりすると連帯責任で全員坊主で走りというおまけ付きである。
元々喘息持ちで持久力に乏しかった私にとってその練習は苦痛そのものであり私が設定タイムに入らなければ仲間から恨まれると
日々体力と精神を削る毎日であった。
あの何度も走らさせてしまった時のお前走れよと言う目は今でも忘れられない。

放課後サッカー部での激しいエネルギー消耗があるため、必然学校内や家での生活は取り敢えず省エネ思考と行動となっていった。
出来るだけ体力を使わないでいかに日常生活を乗り切り部活に備えるか、睡眠時間を確保するかが第一で
体育の授業で無理して筋肉痛になる事すら躊躇った程である。

そして元々辛抱強く無い私は我慢の限界が早々に訪れ、入学して半年も経たずに親に辞めたいと懇願したのであった。
サッカー推薦で学校に入ったは良いものの既にサッカーなどどうでも良かった私にとって部活動は地獄そのものであり、その時はサッカーをTVで観ることすら嫌いになっていた。

今でも部活の三年間をやり直すかと死ぬかと
問われれば確実に死を選ぶくらいには私の精神をすり減らしそして思考力をも奪っていった。

そんな中またも親と担任と顧問からのトリプル説得に折れてしまった私は、高校生活の全てを部活動へと捧げた。
高校三年生の夏越えをする前には引退が決まり、ホッとする間もなくまたもや進路の話に舞い戻った。

引退が決まった最後の試合も負けている状況でので最終兵器として途中出場したのであったのだが、ここを勝ってしまうと引退が伸びて高校最後の夏休みも部活三昧、そして地獄の夏合宿に行かなければならないなどデメリットがあまりにも多く、積極的なフリをして手を抜いていたのが監督にはすぐにバレたのか途中出場途中交代と言う最低の引退試合で私のサッカー生活は幕を閉じた。
私はそれが恥ずかしかったので怪我で交代したフリをしていたのも付け加えておく。

ここでまた進路の話に戻るが両親共に家系で大学を出た者がいなかったのもあって、私の大学進学は両親のそして親族の悲願でもあった。
そんな事は知りつつも部活について行くので必死で、元々勉強など全くしてこなかった私は高校ですら毎年進学ギリギリの低空飛行を続けていて大学進学のことなど考える暇すらなかった。

そもそも進学校などではない普通以下の中堅校だったので上位の人でも国公立など学年に一人や二人、早稲田や慶應も5人もいないくらいのレベルの高校ではあったのだが、両親はそんな事を知ってから知らずかいきなり東京六大学くらい有名な大学でなければ進学させないと、
サッカー部引退が決まった高校三年の夏休みに前に唐突に告げられた。

私は正直もう興味もない勉強なんて全くしたく無いし、いい就職先の為の大学進学なんてまっぴらごめんと言う考えであった。
大学生活という膨大な時間の猶予とサークル活動などのモラトリアムには惹かれていた私は指定校推薦で行ける大学なら行ってやってもいいくらいの気概ではあったのだが、自分が普通に勉強をして六大学どころか指定校推薦で今行けてた大学にすら受かる想像は全くもって浮かばなかった。

付け焼き刃で急遽夏休み中に通わされた夏期講習の予備校は三日も通わずサボるようになり、私はその持て余した時間を親に内緒でアルバイトに準じるようになった。

実は高校に入学する前の春休みの間に知り合いのツテで人生初のアルバイトをして小銭を稼ぎ、そのお金で自作PCを作って貰った過去があったのだが、働けばお金が貰えるというシステムに私は再度夢中になっていた。

予備校をサボっては当時流行っていた
派遣アルバイトで様々なアルバイトをしながらその他にも引っ越しや結婚式場でのウエイターなどを掛け持ちしてバイト代を稼いでは、
大好きな漫画やラノベを買う。
新たな幸せを見つけた瞬間であった。

そんなバイトまみれの受験生期間に勉強に費やした時間は合計して三時間も無かったであろう。

当然一般受験で引っかかる大学など皆無であり、指定校推薦で入れた大学ですら補欠にも引っかかる事は無かった。
ここら辺でやっと将来の夢について考え始めた。
夢と言えば好きなものである。
しかし今までそんな事考えたことも無かった私にその明確な答えは出てこなかった。

それならそれでこのまま気ままにフリーター生活も悪く無いなと思い始めたところであったが、それを許してくれる両親では無かった。

一年浪人して大学を目指せ、だけど予備校には通わせない、これからはバイトをして家に金を入れて食費は自分で稼げ、これが浪人時代に課された私へのミッションであった。

この時にはインターネットカフェとカラオケ屋でアルバイトを掛け持ちしていたのだが、捗るのはバイトとオタ活ばかりであり、当然受験勉強など一分たりともする事は無かった。
勉強会と称してマックに集まっては浪人仲間同士だべるのがとても楽しかった。

この頃は特に涼宮ハルヒなどのライトノベルにハマっておりラノベなら書けるのではと、
よくノートPCを持ち込んでは小説家気取りでラノベを書いては友達と見せ合いっこなどをしていた。

そして迎えた人生二度目の大学受験、
全く勉強をしていないのはもう両親も薄々勘付いていたのであろう、センター試験に至っては併願の試験料すら払って貰えず最早ただの記念受験そのものであった。

本命は勿論滑り止めも含めて全滅で当然の結果に私も両親も特にリアクションはなかった。
両親親族悲願の初の大学進学という夢を長男の私から諦めて三歳下の弟に託す事にしたのか、それ以降私に大学進学の話をする事は無かったそのため私のフリーター生活は続行となった。

家にお金を5万円を入れても月の収入は18〜20万近くあったので携帯台を払って好きな漫画やラノベを買ったりしてコンビニで好きなだけお菓子を買っても十分に生活が出来たのだが、そんなフリーター生活を両親がいつまでも許すはずも当然無く。
半強制的に父親のお客さんのコネで突如正社員として就職する運びとなった。

なんとあの誰もが知る天下の大企業Panasonicだと言う。
本来良い大学を出てなければ到底入れないであろう大企業の名前を前に、スーツをバシッと着てホワイトカラーのサラリーマンをやるのも悪く無いなと急に私も気分が乗りはじめ就職祝いだとお婆ちゃんにお金を出してもらって車の免許を取り、お年玉でリクルートスーツを揃えたりして準備万端で出社初日を迎えた。

何と当日は家まで迎えが来ると言う好待遇らしく、これからエリートサラリーマンになる私にかける期待は中々だなと慢心したりしていた。

おろしたてのリクルートスーツに身を包み込み髪型もバシッと決めたイキる私の前に現れた
迎えの車の軽トラの荷台の横には、確かに「Panasonic
の文字が堂々と書かれており、作業着の運転手に乗せられ辿り着いたこれから通勤するであろう会社はなんと、商店街の中の街の電気屋さんであった。

続く

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