『碧と海』 連載小説【１７】

　早瀬がトイレから帰って来てその話は終わりになったが、代わりによく話す明日香さんから早瀬とは児童擁護施設で一緒だったということを聞いた。二人は小学生の時にその施設に入ったらしい。
　明日香さんは小三の時。早瀬は小六の時。

「あたしのパパはあたしが小さい頃に病気で死んじゃったの。ママは頑張ってたけど、自殺しちゃった。それで『よつ葉園』に行く事になって、碧は後から入って来たんだよね」

と、明日香さんは自分の生い立ちをさらっと言った。決してさらっとした生い立ちじゃないけど。

　『よつ葉園』はミッション系の施設だったらしく、シスターが親代わりになって面倒をみていてくれたそうだ。外国人のシスターも何人かいて、早瀬が話していたマザーグースをよく歌ってくれたシスターもイギリス人だったそうだ。一年早く高校を卒業した明日香は美容師になり、今年卒業した早瀬は『アリゾノ』で働いている。

「だから、私と碧は姉弟みたいなもん。親はもちろん親戚もいないけど、そういう意味じゃ兄弟はいっぱいいるんだよ　ね、碧」

　早瀬は黙ってシーフードピラフを口に放り込んでいる。

「あれ、でも早瀬、お母さん……」

　早瀬は俺を見て、小さく首を振った。言っちゃいけなかったかな。
　明日香さんは言葉を続けた。

「別にみんながみんな親がいないわけじゃないんだよ。虐待されて保護された子が多いの。碧もそう。お母さんは逮捕されて、もう碧と会ったら駄目ってなったんだよね。会ってないよね」

　早瀬は「うるせえな」と言ったっきり、黙り込んでしまった。でも、そんなことは気にせず、明日香さんはビールを追加オーダーし、「何か食べたいなぁ」と楽しそうにメニューを眺める。確かに、姉弟みたいだな。

「そう言えば、海斗くんってさ、いくつ？　碧とタメ？」

「いや、十七。高三」

「げ、高校生？　あ、げ、ってことないか。え、この辺のコ？」

「一人旅だってさ。横浜から」

　早瀬が会話に復活した。

「え〜、なんで横浜から？　中華街から？」

「や、中華街ではない」

「元町？　ＭＭ？　赤レンガ？」

「ベタ過ぎだよ」

　しばらく明日香さんの横浜のイメージが語られてから、改めて何しに来たの、と聞かれた。一瞬、俺、何しに来たんだっけ、と考えてしまう。

「うーん、父親かも知れない人に会いに来たのと……」

「それ、俺、聞いてない」

「え〜何。かも知れない人って何〜」

「あーと、俺、生物学上の父親が誰だか知らないの。母さんは結婚しないで俺を産んだから。今はいるけどね。俺が九才の時母さんが結婚した人」

「ふうん、同じだ。俺と」

「まじ？　早瀬も、父親の事知らない？」

「知らない。外国人だったみたいだけど。同じ緑色の目、だってことくらいしか知らない」

「海斗くんは調べたの？　お父さんのこと」

「調べたってほどじゃないけど。手がかりがあって、こいつだろうなって思って、それで今日会って来た」

「会ったんだ」

「え〜、どうだったぁ。修羅場〜？」

「修羅場じゃないだろ」

「なんか、別に、って感じだった。そいつ、自分が父親だっていう証拠がないって。ＤＮＡ鑑定してもいいけど、って言われたけどさ。そんな風に言われたら、なんか、気持ちが冷めるよな」

「もっと感動的だと思ってた？　テレビみたいにぃ」

「つうか、なんだろ。何かがストンと落ちる、みたいな。そういうのがあるかな、って期待してたのかも」

「でもさ、今父親いるんだろ。なんでそんな知らない男にわざわざ会いたいと思うかな」

　責めるような言い方ではなかった。碧は、ただ分からないという顔をしていた。

「早瀬は気にならない？　父親のこと」

「まず、想像が出来ない。どこの国の人間かも分からないんだからさ。探したいとも思わない」

　確かに、俺だって手がかりが無ければ会いたいとも思わなかっただろうな。

「俺はさ、繰り返し見てる夢があって。その夢の中に出てくる男が俺のパパだって言うんだよ。もしかしたらそれは、夢じゃなくて、記憶なのかもしれない。ずっとそれが気になってた。だから確かめたかったんだ。夢なのか、記憶なのか」

「どうだったの？」

「ただの夢だったんだと思う。夢の中の男とは違った、と思う」

「ふうん。夢かぁ。つうか、あたし、夢って見ないんだぁ」

　明日香さんがグラスの縁をなぞりながら言う。

「あ、違う。夢って覚えてるか、忘れるか、なんでしょ？　だから、あたしは起きる時に全部忘れちゃうんだぁ。きっと。たぶん、見たくないって思ってるから……怖いから」

　早瀬が頬杖をつきながら、横目で明日香さんを見る。明日香さんは言ってからはっと顔を上げ、首を振る。

「あ、ごめん。ごめ〜ん。明るくしよ、明るく、ね」

　その後明日香さんは、早瀬の事をどんなに好きか語り、一生ずっと一緒にいようと迫っていた。園にいた明日香さんも何か背負っている物があるのかもしれない。俺はふと、早瀬の母親の姿を思い出した。「昔はもっと綺麗だった」と言ったときの早瀬の横顔も。