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『碧と海』 連載小説【20】

 その『ジョリーズ』というファミリーレストランは、俺が知ってるチェーン店のどれでもなかった。それでいてどれにも似てるような雰囲気の店だった。ちょうどお昼の時間で満席に近かったが、待たずに座ることができた。案内された席に座ると、ろくにメニューもみないでかつカレーを頼んだ。もちろん、チーズのトッピングも。
 待っている間に桂木にメールでもしようかとスマホを取り出した。その時に初めて俺は「おや?」と気付いた。通路を挟んで隣の席の、派手なオーラで周囲を引かせているカップルの女の方。早瀬の母親だった。ばっちり化粧をしていたからパッと見て気がつかなかったが、大きくてはっきりとした二重の少しつり上がった瞳は、確かに昨日見たものと同じだった。彼女はだらっとしたTシャツにショートパンツを履いて、赤いキラキラしたミュールをつま先でぶらぶらさせていた。彼女の前でコーヒーを啜っている男は、茶色いパサパサしたロン毛で、手首とか指とかいろんな場所にゴリゴリしたキラキラのものをジャラジャラと着けていた。髪型とか着ている物とか、若作りしているようだけど四十歳は超えていると思われる。雰囲気から察して、二人は恋人同士のようだった。

 うちの園ってね、虐待されて保護された子が多いの。碧もそう。

 昨日の明日香さんの言葉を思い出す。この女は自分の息子に何をしたのだろうか。
 カツカレーは美味かった。カツは揚げたてでサクサクと香ばしかったし、たっぷりとチーズがかかったカレーも懐かしい味がした。でもカレーの美味さに最後まで集中する事は出来なかった。隣の席から「碧」という言葉が聞こえて来たからだ。

「日曜の事、碧に言ったか」

 男がスマホをいじりながら言った。

「まだ。だって、聞いたの昨日じゃん」

 早瀬の母親もスマホをいじりながら答える。

「早く言っとけよ。大事なお客様なんだからよぉ。来なかったら殺すぞ」

 客? 

「つうかさぁ、ホテルじゃやばくねぇ? 前にパクられたのもホテルだったじゃん」

 パクられた?

「いつものケチな客とは違うんだよ。ボロアパートに呼べるかよ」

 早瀬の母親はスマホをいじりながら黙っている。男はスマホを置いた。

「なんだよ、なんか文句あんのか」

「……別に」

「なら早いとこ碧の奴押さえとけよ。日曜の九時な。夜のだぞ」

 ズルズル音を立ててコーヒーを啜る男に、早瀬の母親は感情のない目を向けた。

「なんだよ」

「バレたらまたムショだよ」

 男は早瀬の母親に顔を寄せ、小声で凄む。

「だからバレないようにやんだろ。お前、普通に働いて金返せると思ってんの? それともお前が体売るってか? 四十過ぎのババァが」

「うるせえな。あたしが売るの嫌がってんのはあんただろ。あたしは別にいいんだよ。体ぐらい売ったって」

 早瀬の母親は男に軽くガンをとばす。男は女の手首を掴んでねじ上げた。

「冗談じゃねぇ。それだけは許せねぇ。他の男とやってみろ、殺すぞ」

「痛てえよ」

「分かったのかよ、てめぇ」

 早瀬の母親は大きなため息をついた。男は手を離さない。

「お前は俺の女だ」

 脅迫めいた言葉とは裏腹に男は今にも泣き出しそうな顔をしていた。そんな男を見た早瀬の母親から力が抜けた。そして大きく息をついて笑顔を見せた。その笑顔に男は満足したのか、女から手を離した。でも俺には、その笑顔は疲れたような、どこかあきらめたような残念なモノにしか見えなかった。

「碧に言っとくよ。プリンスホテル、ね」

「まじで頼んだぜ。あの客に気に入られたら報酬も一桁上がるからな」

 男はいやらしい笑みを浮かべている。

「碧だってカス相手よりいいだろ」

「どうだか」

「決まってんだろ」

「じゃ、もう時間だから」

 そう言って母親は席を立つ。男が彼女の腕を撫でる。

「なぁ、チマチマしたバイトなんてやめろよ」

「体売れねえんだからしょうがねえだろ」

と、彼女は男の手を振り払う。去り際に彼女と目が合う。慌てて俺は視線を逸らし、カツを口に放り込む。
 何なんだ、今のあいつらの会話は。
 脇の下にぬるっとした汗が湧いて出ていた。汗が脇腹を伝っていく感触に寒気を覚える。耐えきれず、口の中でぐちゃぐちゃになったカツを皿の上に吐き出した。何の味もしないゴムのようなそれを飲み込める気がしなかった。もう食欲もなかった。ただ、逃げるようにその場を離れる事しか出来なかった。

 早瀬の短パンは昨日の姿のまま岩に張り付いていた。
 鍵はポケットの中に入ったままだった。ついでにスマホとガムも出て来た。短パンごと持って帰ろうか迷ったが、鍵とスマホだけ回収するとその場を離れた。そして、昨日早瀬が立っていた崖に登った。
 崖の先端まで行くと、海の上に浮かんでいるような気がした。
 強い風に煽られないように足の裏に力が入る。岩を叩いて弾け散る波の音が全身を包み込む。遠くで聞いている分には心地よい波の音が、なんて荒々しいのだろう。まるで足下から俺を飲み込んで噛み砕き、産まれる前の生命の小さなかけらに戻してしまうかのようだ。
 水平線をじっと眺めながら、どんな思いで早瀬がここに立っていたかを考える。どんな気持ちで海に飛び込んだのだろう。岩に張り付いた短パンが、昨日の早瀬の姿と重なった。

 気がつけば俺の足はカーサ鈴木の方向へ向かっていた。
 しかし、水色と黄色のアパートを通り過ぎても止まらなかった。やってきたのは落書きだらけの家の前だった。
 異様で異質なその家は、何故だろう、よく分からないのだけど俺の心を惹き付けた。いいや、もしかしたら共鳴したのかもしれない。
 『死刑』『死ね』『人間失格』などの言葉が呪詛のように張り付いた、まるで悪意の巣窟。例えこの家の誰かが犯罪者だったとしても、この家に染み付いている悪意は犯罪者自身のそれではない。彼に向けられた、普段は犯罪を犯さない善良な町民のものなのだ。
 俺は穏やかな姿をしたご近所さんたちの体を突き破って、どす黒い悪意が飛び出す様を想像した。ぬらりと光る黒い人型の塊が、吐き出した反吐を壁に塗りたくっていく。

 気分が悪い……。

 何故俺は「共鳴」などと思ってしまったんだろう。
 思わず頭を抱えると、ぶぶっと耳元で音がした。
 ゆっくり右に顔を向けると、肩にてんとう虫が止まっていた。
 例の霊ではない。本物の赤いナナホシテントウ。
 早瀬が歌った『Ladybird』のメロディが脳裏をよぎる。
 俺はてんとう虫に向かって優しくふうっと息を吹いた。

「お家へ飛んでいけ」

 てんとう虫は飛んでいった。飛んで、死刑と落書きされた塀を越えていった。

「あれ?」

 一瞬、頭の中がゾワっとした。それから胸が急に熱くなる。何かが溢れ出す感覚。心臓が収縮する度に、生暖かいどろっとしたそれは体中に広がっていく。

「……あれ?」

 何だろう、この感じ……。

 てんとう虫が飛んでゆく。

 暑さの中を、目を細めて、伸ばす手、熟れた香り……俺は。

 思い出した。

 鼓動が跳ねる。

 きびすを返し、カーサ鈴木に向かって走り出す。大家さんの家の手前で左に曲がる。そう、確かこっち。大家さんの敷地の裏に、あった。今でもあった。トマト、なす、オクラ、枝豆。こぢんまりとした家庭菜園にたくさんの夏野菜が実っていた。

「これ、なーんだ」

 この畑の前を通る度、母さんは野菜や、まだ葉だけのそれらを指差して俺にそう聞いたっけ。赤く熟れてぶら下がったトマトを見ていると、幼かった頃の記憶が蘇って来た。俺の隣にしゃがんで笑いかける母さん。ぼんやりで鮮明ではないけど、笑っているのは分かる。

「あーんとね、なす。これはオクラ」

 突然蘇った記憶。霧が晴れるとはまさにこの事だと妙に納得する。俺はここに住んでいたのだ。六歳以前の俺がちゃんと存在したんだと、そう実感出来た事がなにより嬉しかった。
 俺は記憶をたどって、母親と通った道を歩く。しかし、カーサ鈴木の前に来ると、ぷつんと記憶が途切れた。まるで何者かに切り取られたみたいに。でもまた思い出せるかもしれない。十年も無くなっていた記憶が突然現れたんだ。可能性は十分ある。俺は大きく息を吸い込んで、匂いと温度をたっぷり体に取り込んだ。

 また来よう。そう決めて俺は『アリゾノ』に戻る事にした。

 でも、ママには秘密だよ……。


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