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『碧と海』 連載小説【18】
『ペンション アリゾノ』に戻った俺は、ランドリーで海水に浸された服を洗った。その間にシャワーを浴び、歯を磨いて洗濯物を干した。そこまでしてから、ベッドに寝っ転がって、スマホに届いたメッセージをチェックした。開け放した窓から入ってくる風を感じながら。洗濯物が時々風でなびいて、洗剤の甘い香りが広がる。早瀬は明日香さんをタクシーに乗せに行ったっきりまだ帰ってこない。
桂木からメッセージが来ていた。
「昨日は気まずい感じになっちゃってゴメン。あのさ、ちゃんと話ししていい? 近いうちに会えるかな。会って話したい事がある」
思わずため息が出る。話したい事?
もう付き合ってるフリは出来ないとか。やっぱりそう言う事なのだろうか。
昨日の俺はマズかった。桂木の事、怖がらせてしまった。でもちゃんと聞きたかったんだ。
桂木は「プラトニックな恋愛もアリだと思う」と言ったけど、それって本気なの?
やばい。正直、逃げたい。
頭を抱え込んで、あぁ、情けない。と心の中で嘆く。
俺ってこんな風だったっけ。
付き合うフリをすると決めた時、お互いに好きな人が出来たらこの関係は止めると約束したんだ。いつかは止めるって分かってたはずなのに、止める事を考えると心の中の何かがザワザワ動き出す。焦り出す。付き合うフリを止めても友達の関係は続くはずなのに。
そう、俺たちって友達なんだよな。
友達以上のなんでもないんだよな。
なぜ寂しく思うのか、本当は分かってても敢えて分かっていないフリをする。そろそろ桂木離れをしないといけないのかもしれない。だって、この恋人のフリは永遠には続かないのだから。
「俺、今日から伊豆に一人旅。しばらく帰らない予定。ホントは昨日、それをお前に言いたかったんだ。昨日の事、俺も無駄にムキになってた。ゴメンな。帰ったら会って話そう。俺、お前とはいい関係でいたい」
書いては消し、消しては書いて、どうにか返信する。少しして返事が届く。
「一人旅? まじでか。急だな。でも、いいかもな、そういうの。まぁ、受験生ってこと忘れずに。伊豆かぁ。ちょっとうらやましい。たまに写メくれ。いい旅を」
スマホを投げ出すとため息が出た。もう、桂木が何を考えているの想像がつかない。お前とはいい関係でいたい、というかなり勇気を振り絞った十二文字への応えがない。スルーされたのか否定されたのか。あぁ、もう、なんだかな。もやもやもやもや。
そんな時、ドアが開き、早瀬が入って来た。濡れ髪にさっぱりした顔をして、昼間貸した俺の服をまた着てる。てんとう虫のTシャツ。
「新しい服貸そうか?」
「いや、いい」
早瀬はソファに倒れ込んだ。
「それより海斗さ、お願いがあるんだけど」
クッションを枕に寝そべりながら、人にモノを頼む時の態度とは思えない恰好で言う。
「何?」
「明日、鍵取って来てくれない? 俺、仕事休めなかったから」
海辺に脱ぎ捨てた短パンのポケットにある鍵。
「俺が? 何でだよ」
「頼むよ。晩メシおごったじゃん」
「それは、そこに寝てられる礼だろ」
「明日もおごるからさ、頼むよ」
さすがに体を起こし、申し訳なさそうな目で俺を見る。捨て猫が哀願するような瞳を見て、非情になれる訳が無い。だって俺は誰にでも優しい風な男だから。
「……質問に答えてくれたら、いいよ」
「何?」
俺は崖の上から人形のように落ちていく早瀬の姿を思い出す。
「本当は死のうとしたんじゃないの。崖から飛び降りて」
早瀬の顔がみるみる不機嫌になる。そして、ため息まじりに答えた。
「そうだよ」
「やっぱりそうか……」
「はい、じゃぁ明日頼んだからな」
と言って、早瀬は俺に背を向け、ソファに横になる。
俺は起き上がって、部屋の電気を消した。開け放した窓からアーモンドみたいな月が見えた。早瀬は背中を向けたまま動かない。俺もベッドに寝転がる。
時々、車が走る音と、誰かの笑い声が遠くから聞こえた。少しすると、穏やかな波の音も聞こえてきた。
「……なんで死のうと思った?」
俺はつぶやくように聞いた。
「……お前には関係ない」
「あの時、許すって言えって、俺に言っただろ。それ、関係あるんじゃないの?」
「それはっ」
やっと早瀬がこっちを向く。でもまたすぐに顔を逸らす。
「……関係ない」
「先月、母親が死んだんだ」
「……だから、なに」
「だから、ってわけじゃないけど。まぁ、君が死ななくてよかった」
「関係ないじゃん」
「周りでバタバタ死なれたら気が滅入る」
ふうっとロウソクの火が消えたみたいに部屋が暗くなる。月に雲がかかったのだ。
目を閉じると暗闇が濃くなる。暗闇に落ちて行きたくなる時がある。俺の中の空洞。失った何か。欠落、欠陥。早瀬にも、何か欠けたモノがあるのだろうか。だから暗闇に落ちて行きたいと思うのだろうか。
「落ちて行く時、どんな気分だった」
「え?」
「崖から落ちていくとき」
「……どうだったかな」
「俺もさ、落ちたいと思ったことがある。出来なかったけど」
「……そういう、同情とかいいから」
「うーん、同情ってわけでもないんだけど。早瀬はさ、女の子と……」
と言ってから、さっき明日香さんが言った事を思い出した。
ゲイだから、碧。
「なに?」
「いや、早瀬は、好きな人と、その、やったこと、あるだろ?」
「セックスのこと?」
「まぁ、そう」
「はは、好きでもない奴ともだいぶやったけどね」
自慢か、自嘲か、鼻で笑ってる。
「俺はさ、無理なんだ」
「無理?」
「女の子を抱けない。考えると死にたくなる」
雲間から現れた月の明かりが、部屋に優しく差し込んだ。
初めて誰かに話した。
「欠陥品なんだ、俺。たまに深い闇の谷間に身投げして、そのままプツッとシャットダウンしたくなる。君が落ちて行くのを見て、一瞬自分を見たかと思った」
「……女が怖いってこと?」
「怖い?……分からない」
「……男も?」
男? 考えた事なかったな。桂木にはゲイだなんて言ったけど、可能性は考えたことなかったな。だって、男相手にときめくなんてこれまでなかったし。でも、もしかしたら男相手ならあの拒否反応は起こらないかもしれない。男相手なら、セックスができるのかもしれない?
早瀬の方を見ると、視線が重なった。
早瀬は慌てて視線を逸らした。
淡い月光が整った早瀬の横顔を、白く浮かび上がらせている。
「ゲイだから、碧」という明日香さんの言葉を思い出し、ドクンと鼓動が跳ねた。
柔らかくうねった額にかかる黒髪。鼻から唇、顎へ続く美しいライン。息をするたびに揺れる喉仏が、彼が生きている事を証明している。倦怠と怠惰を纏ったような彼は、服は確かに着ているのに、裸の姿を見ているような恥ずかしさが込み上げてくる。早瀬の「性」を見たような気がした。早瀬がゆっくりこちらを向き、再び視線が絡まる。
「……いいよ」
俺は呟いた。
早瀬は驚いたように目を見開く。
「明日、鍵、取って来てやるよ」
俺はどんな顔をしてたんだろう。
早瀬は素直に小さく頷いた。
「うん。……頼む」
俺はタオルケットを引っ張り上げ、早瀬に背を向け、目を閉じた。
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