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イネ

私の人生においてイネが実った田んぼと言うのを見たことが無い。

昔田植え体験みたいなものをした事はあったが、結局植えたイネが実ったのを見たことはなかった。

そもそも田んぼ自体を見る機会が少ない上に、実をつける瞬間というのはさらに稀だ。

似たようなことは日常でもある。


よく行くラーメン屋さんの店主はいつも元気でハキハキしている。時にはラーメンを待っている私に気さくに話しかけてきたりもしてくれる。

私はこう言う場面で碌な返事が出来ず、ああ、とか、ううとしか言えないのだが、この店主の問いかけには何故かスムーズに会話が出来た。

そもそも私はすごい元気な人を見るとたじろいでしまうタイプで、店主はまさしくその典型なのだが、何故か私はこの人に好感を持っていた。色々理由を考えてもその何故は分からず、ただただ私はおいしいラーメンを啜っていた。

だが、ある時その原因が分かった気がする出来事があった。

その日私は休日で、何の予定も無いままに街をブラブラしていた。本屋を冷やかしたり、スーパーを覗いてみたり。そんな事をしていると時計は午後11時を回っていた。

そろそろ帰るかと思い駅に向かおうと思ったが、突然あのラーメン屋行こうとふと思った。

その日は夕飯は食べなくていいやとか思っていたのだが、ラーメン屋が頭に浮かんだ途端、舌も腹もラーメン一色になってしまった。

そのままフラフラとラーメン屋に向かうと、残念な事にラーメン屋は閉まっていた。

どうやら閉店時間を過ぎていたらしかった。いつも行けば開いていたので、時間なんて気にした事がなかったのだ。

がっくりしながら灯りの落ちた店内のガラスを見ていると、誰かが客席に座っている。

それはラーメン屋の店主だった。

普段エプロン姿の店主は、ジャンパーを着て客席に座ってただ何をするでもなく俯いている。

その表情は暗くてよく分からなかったが、少なくと明るいものでは無いのは明らかだった。

私は直ぐにその場を立ち去った。

何だか見てはいけないものを見てしまったと思うと同時に、何となく私がこの店主に好感を持った理由が分かった気がした。


それ以降も私はそのラーメン屋に通っている。いつも店主は元気だし、たまに声をかけてくれる。

不意に、あの夜何をしていたんですかと口が出そうになるが言ったことはない。


もしかしたらイネの実った田んぼも、何か私の知らない一面があったりするのかも知れない。そう思うと見たいような、見たくないような何とも言えない気持ちになる。

でももし見ることが出来たなら、きっとイネの知られざる部分を知ることができるのだろう。

良くも悪くも。


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