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「編集者の役割」とは何か

先日、誰に向けたわけでもなく、自分だけのために書いた文章が、意外にも多くのビューを獲得してしまった。バズらせるなんて飽きた、どうでもいいと愚痴った文がバズるとは、まったく皮肉なものだ。

これもフォロワー40万人のYouTuber、瀬戸弘司さんに拾ってもらったおかげだ。いい機会をいただき、ありがとうございました。

「表現の多様性」が存在した時代

帰りの電車でnoteのダッシュボードを見たときには、あんなわけの分からない文章が3日で8万ビューも獲得したなんて、この国も捨てたもんではないな、なんて尊大な考えが湧いた。

やはり多くの人に見られると、中には瀬戸さんを始めとする読解力の高い方々の目にとまる機会も増えるし、ツイッターでの言及も興味深かったので、その点はとてもラッキーだったと思う。

その一方で、どうせ中身を読んで理解して「いいね!」を押した人なんか、そんなにいないんだろうね、と醒めている部分もある。

もちろんこちらにも問題があって、寝る前に書き散らしたものだから、構成や論理もちゃんとしておらず、翌朝読み返して我ながら困惑した。

まあ、あえてつなぎを省略したんだろうと思えるところもあり、それによって何通りかの読み方ができるところがよかったのかもしれない。

そんな中で、楠正憲さんの指摘が興味深かった。

楠さん自身もツイッターのフォロワーが3万人超いるけど、自分の考えを多くの人に知らしめたい(パブリッシュしたい)という欲求を果たすためであれば、いまや本を出すよりネット上に書いた方が有効だ。

かつて出版社は、取次とともに紙の本の流通を握っていたので、著者は出版社に逆らえなかった。しかしいまでは、出版社の編集者や営業担当より、いわゆるSNSのインフルエンサーの方が流通の力やノウハウを持ってしまい、出版社の存在価値が地に落ちてしまった。

そんな状況に適応して、編集者自身がインフルエンサーになろうという動きもあるほどだが、それは別とすれば、現在の環境は、多様な著者が、個々の主義主張を誰にも邪魔されずに出しやすい状態といっていい。

直接的なフィードバックの「弊害」

そんな「著者最強」の時代にあって、なぜコンテンツは陳腐で似通ったものに成り下がり、多様性が失われてしまうのか。

それは、爆発的な数を追おうと思えば、読者の質をかなり犠牲にしなければならなくなるからだろう。有吉弘行もこう言っている。

ブレイクするっていうのはバカに見つかるってことなんですよ。
ブレイクしないっていうのは目利きの利くちょうどいい加減の人に面白がられている時期なんです。
http://littleboy.hatenablog.com/entry/20090306/p1

だいたいにおいて「ライフライナー」というのは、著者本人よりもイケてない人たちが多いものだ。しかし、著者は、いつの間にかそのような「ライフライナー」なしでは生きていけなくなり、彼らを引き止めるために、彼らに受けることを続けなければならなくなる。それが先日書いた、

ネット受けを意識するあまり、他人の欲望に応えることを内面化し過ぎてしまい、自分の欲望が空虚になる

という状態だ。

きっとインフルエンサーたちは「私は好きなことをやってる! 他人に振り回されてなんかいない!!」と反論するだろう。果たしてどんなもんだか。

ネットのいいところは、読者の反応がダイレクトに届くところだ。しかしこのフィードバックが強烈すぎて、多くの人に読まれ、称賛の声にさらされることに取り憑かれると、抗うのは難しくなり過剰適応に陥る。これを「スタンドアロンポピュリズム」と称している人がいて感心した。

表現は伝達を前提としない

ここらで本題に戻ると、読者から直接的なフィードバックがあるネットでは、(往々にして頭カラッポな)読者に振り回されるために、ウケるものは何もかも似てきてしまう、というのは動かぬ事実としよう。

それでは、なぜ紙の作品に多様性があったのか。ひとつあり得ることは、書き手が自分のためだけに書いていたから、ということだ。

例えば、作曲家の武満徹は、非常にオリジナリティの高い作品を作り、世界的な評価を受けているが、日本ではウケが悪い。現代音楽だといって毛嫌いする人だって少なくない。

それは彼が日本の聴衆におもねらなかったからだろう。彼は委嘱作品であっても「自分のために音楽を作る」という姿勢を崩さなかった。

したがって、その作品は確かに「自己満足」だったかもしれないが、その一方である普遍性があったから、私のような武満フリークもいるわけである。

それでは、「自分のために音楽を作る」スタンスが守れた理由は何なのか。いまは「それだけ表現欲が強い人が表現をしていた」としか考えられない。消費資本主義に毒された人には理解できないだろうが、表現とは伝達を前提としないのである。

よい編集者は作家を妨害する説

もうひとつ考えられるのが「編集者の役割」である。編集者とは、作家と読者をつなぐ存在として、少しでも作家が売れて儲かるような役回りをするのが当然と思われている。

しかし、それだけでは、先日書いた吉田健一や後藤明生のような奇妙な作品は生まれないはずである。

もしかすると、優れた編集者とは、作家と読者を断絶させるように見える役回りを果たす場合があるのかもしれない。たとえば、こんな感じである。

「先生、今回の原稿は先生らしくありませんね。もしかして、読者に日和ったのではないですか?」

「先生は、先生の世界をちゃんと守ってください。アホな読者におもねることはないのです。今回の原稿はボツ。新たに書き直してください」

こういうことを言う、いや、実際に言わないにしろ、いざというときにこういうことが言える準備をしている編集者がもし仮にいたならば、多様性は確保できる。

逆に、売れることばかり、スルスルと読めることばかり考えている編集者の元では、何もかも似通った陳腐なものになってしまいかねない。

実際、こういう編集者に捕まった作家は、「先生、またアレみたいな本を書いてくださいよ」なんて言われるのがオチだろう。

言い換えると、読者におもねりたがる作家を妨害すること――。もしかすると、表現の多様性を確保することができるよい編集者には、そんな役割も求められているのではないだろうか。

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