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トモダチ
ようやく眠れたと思ったら、枕元での振動が私を起こした。暗闇での光は、目と頭を刺激してせっかくの眠気を吹き飛ばす。画面に映し出されたのは、
同窓会のお知らせ
という文字たちだった。
同、窓、会。その3文字から目が離せなくなる。それにしてもこんな時間にメッセージを送るのが許されるのは、中学の同級生という、言うなれば身内に近い存在だからだと思う。とはいえ、あまり常識的ではないし、健全な時間帯とはいえない。
25歳。
働き始めて数年が経ち、それなりに大きな仕事を任されている頃だと思う。もういい大人だ。
みんな、上手く社会のレールに乗っかって、その歯車としてきちんと社会人としての役目を果たしていることと思う。中には、起業とかしている人もいるかもしれないし、結婚して家庭を持っている人もいるかもしれない。頭の中の同級生たちは、順風満帆な人生を送っている。
でも、私は。
新卒で入った会社でうまくいかなくて、早々に辞めて、現在無職。
無所属。どこにも所属していない。社会という、私にとっての「呪縛」から解放されたものの、なんだか世界から置いてきぼりにされている感じがする。どこにも属していない浮遊感と不安感。自分が欠けていてもこの世界は円滑に機能しているし、もう自分は、どこにも、誰にも必要とされていないんじゃないか。それに、多分もうやり直せない。再起不能。ほつれた糸は、もう元には戻せない。早くに社会から離脱した私は、そこへの適正がないし、かっちりはまるような戻るべき場所もない。そう思うと、無意識に刻んでいるはずの呼吸のリズムが乱れてきて、空気がうまく取り込めなくなる。
苦しい。
大人になると、生きることは働くことと同義になる。その常識からはみ出した私は、まるで重力に逆らっているみたいだ。子供に逆戻りして、ただ食べて消化して、単純作業を繰り返すだけで、存在していていいのかわからなくなる。
友達。トモダチ。ともだち。
懐かしいその響きを久しぶりに思い出す。
中学を卒業して何年かはこまめに連絡を取り合って、年に何度かは会ったりもしていた「友達」とも、今はもう連絡すら取っていない。
友達作りは、椅子取りゲームのようなものだった。いつメン、いつも一緒にいる気の合う子をどれだけ早く自分のものにできるか、固定化できるか、その競い合いが当時の一つの大きな関心事だった。それは、クラスが替わってすぐに行われるものだった。
誰かとくっついていなければ、常に誰か一緒にいる人がいなければ、1年を通してクラスでの肩身が狭くなる。居場所を作るため、「ぼっち」にならないため。
それから数分も経たないうちに、次のメッセージが画面を照らした。
「八戸、招待する?コチャ、持ってるけど」
そう言ってきたのは、当時はあまり目立たない部類に入っていた藤原くんだった。大学が同じで、語学のクラスが一緒だったから。その説明も加えて。
「入れなくていいよ、ばが壊れる」
元学級委員が、素早くメッセージを返す。
ば、を変換しなかったのは何でだろう、と取るに足らない疑問が頭の中を駆け巡る。別の表記で綴られた変換すべき文字には、何か深い意味があるんじゃないかと考えてしまうのは、私の悪い癖だ。どうでもいいところで立ち止まってしまう。
ハブる。10年経っても、ハブき続ける。当時の関係が、そのままそっくり引き継がれる。
決定権を持った権力者。
有無を言わせぬ発言力。
連む人のいない独りぼっち。
間髪入れずに、その返信が表示された。
藤原くんは、どんな意図でそのメッセージを送ったのだろう。
その文面からすると、招待することに前向きだったのではないかと思う。
たやすく打ち砕かれた小さな勇気。
ゆかちゃん不在のグループライン。
いないのは、ゆかちゃんだけ。
女王様気質で、我の強いゆかちゃんには誰も逆らえなかった。男子でさえも。
はじかれていることに、かわいそう、と思う自分もいる一方で、優越感に浸る自分もいた。グループ内にきちんと収まっている。居場所がある。そのことに安心していた。だが、その安心が今は邪魔にすらなっている。
横になっていたものの、早朝まで目が冴えていて、眠りに誘われたと思った途端、振動が再び私を起こした。当時最も親しかった、咲良からだった。
「榛名(はるな)も来るでしょ?」
コチャだった。当然の参加を確認するその短文には、見えない強制力があった。
既読はつけない。
会いたい。でも、会いたくない。矛盾した二つの思いがぐるぐると渦巻く。難しいことを考えず、純粋無垢の状態の、飾らない本来の自分を知っている人たち。みんなが、どんな大人に、ビジュアルになっているのか、純粋にこの目で確かめたい。大学までは、クラスの人たちのTwitterを追っていて、そこまでは皆絶えず更新を続けていたから、それまでの動向は知っている。Twitterをやるのは大体大学までで、その先は音沙汰なしだ。
それから先のそれでもやっぱり、今の自分を知られるのは嫌だし、劣等感に苛まれるだけだろう。社会的にアウトな自分が、ふらふらと華やかな公共の場に出向ける訳がない。
「今何してるの」「どんな仕事してるの」「どこの企業勤めてるの」。働いていることが前提の質問の数々が、脳内で矢継ぎ早に自動再生される。いわゆる「勝ち組」に属する面々のその好奇の目は、私をどん底に突き落とす。
やりがい。給料。福利厚生。プライベート。
饒舌に語る同級生の姿が目に浮かぶ。それに耐えられるような丈夫なメンタルを、今の私は持ち合わせていない。次にハブられるのは、はじかれるのは、ぼっちになるのは、私だ。かつてのスクールカーストは、どの企業に属しているかや、どれだけ出世して偉くなったかという社会的序列に最も簡単にひっくり返されてしまう。その最下層に位置することになった私は、そうした会話の輪の中に入っていけない。
自己責任。
何も考えずに、当時の友人たちに会えていた頃を懐かしく、恨めしく思う。
「絆」という字は、「きずな」とも読めるし、「ほだし」とも読める。
まさに今の私の状況だ。
もういいや。
考えるのが面倒臭くなって、スマホをベットから投げ捨てた。
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