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好きというだけではファン面できない時代/ずらされていく価値

あなたに好きな人やものはあるだろうか。
そしてその全てに臆面もなく「自分は〇〇のファンだ」と言えるだろうか。そこまで言うには後ろめたい、内心忸怩たるものを感じるような在り方で好き、という領域はないだろうか。

好きでいることと、ファンであることの間の距離が遠い時代だなぁと思う。
ファンであるためにはコミットが必要な時代。金を払うこともそれに当たるが、それに限らない。自分がまさに価値を感じていることではないことにすらコミットしないとファンを自認しづらい時代ではないか。

そんなことを最近考えていたのだけれども、直接的にはこのリリースを受けて書いた記事である。

神椿市のメタバースを共創するWeb3コミュニティ「KAMITSUBAKI DAO」発足。ファンディングサービスFiNANCiEにてトークンの新規発行・販売開始。

神椿とかNFTにはそれぞれ思うところがあり余談として後述するが、先に言っておくと神椿スタジオは別に熱心に追っている身ではないので否定的に取り上げることになって若干申し訳ない。
これによると

  • 「神椿市」なる独自のメタバースを作りたい

  • そのために建設する主体となる"共創型"コミュニティを作り、トークン発行型ファンディングを行う

  • 支援者やトークン保持者にはNFTアイテム等の特典を配布

というようなことが書いてあって、例えば初回支援特典としてメンバーシップバッジ(NFT)やデジタルフィギュアなどが用意されている。

どの程度こういったイマドキな試みがファンに受け入れられるのかは分からず、温度感次第、特典の内容次第なところはあるが、ポジティブなケースでは「ファンなら参画して当然」という扱いになることも十分考えられる。

でもそれって本来ファン達が神椿(の所属アーティストたち)に見出した価値とは関係のないことだよね、というのが自分の言いたいことだ。

神椿であれば、普通は歌に惹かれてファンになるんじゃないのか。メタバースとか、NFTアートとか、公式コミュニティへの参画といったものは、それ自体を目的とされるような価値ではないんじゃないか。

もちろん好きなものに付随する物事へ好きが広がっていくという現象は自然なもので、そこに主従や貴賤はないかもしれない。とはいえそもそもを言えば、アーティストやその歌を愛することと、所属する運営母体を愛することは本来全く別のことだ。

それが、所属アーティストたちを応援したいという、それ自体は偽らざる本心からの想いに媒介されることによって見えなくなる。重要視すべき価値がずれていく。あるいはずらされていく

「KAMITSUBAKI Resident Genesis」は、KAMITSUBAKI DAOのメンバーが優先的に購入することのできる特別なNFTアイテムで、1つ1つの見た目が全て異なる、神椿市の住民を具現化したNFTアートです。

「KAMITSUBAKI Resident Genesis」を手に入れることで、神椿市の住民としてのアイデンティティを更に獲得することが出来ます。

特典付きサポーター募集 | KAMITSUBAKI DAO | FiNANCiE

……神椿市の住民としてのアイデンティティとは、如何なる価値を持つ実体なのだろう。

または、そこまで付き合いきれずに離れるという行為が、ファンという自意識からの疎外を意味することになるという状況もあり得る。それはきっと悲しいことだ。

そんなことは関係ない、好きという以外にファンを名乗るのに必要な資格は無いのだと言い切れる人は幸福だ。だが現代はあまりにも代表的な(しばしば理想的な)ファンという在り方が可視化されやすい時代ではないか。

そして! 本日より「#KAMITSUBAKI_DAO」が発足されました。 併せてファンディングなども実施されているそうです。何が起こるのか未知の世界ですが、ドキドキする未来をみなさんと一緒に歩んで行けたら嬉しいです! よろしくお願いします。

ヰ世界情緒 Twitter 22/09/16

先に述べたようにこれは最近考えていたことで、ストリーマー一般のファンの在り方についても同じことが言える。

メンバーシップに入り、限定動画を視聴するというときには、自分の感じている価値と支払う対価は概ね正しく対応しているといえる。だがひとたびメンバーシップに加入すればその期間が表示され、設定次第でバッジの見た目が変わっていく。そこに果たして何らの価値も見出さないだろうか?

ファンを自称するならば、できる限りリアタイせねばだとか、出たグッズを買ったり、コメント欄やTwitterのコミュニティに多少なりとも参加(コミット)せねばという自意識が働くことだってあるだろう。しかしその行動は、自分が当初見出した価値、ファンになった由縁の価値それ自体を増大させるとは限らないのだ。そしてそのような自意識は、そこまでするには至らない物事に対しては疎外感を生むことになる。

あるいはソシャゲー。キャラクターの魅力に惹かれて始めたものが、段々やれ何万つぎこんで引いただとか、はたまた爆死しただとか、しょうもない既存絵のコラボチップスを買い占めてきましただとか、そういうことをTwitterで報告することそれ自体に価値を感じるようになっていたというようなことはないだろうか?

ずらされていく価値、何か別のものへのコミットとはそういうことだ。
それらが無自覚なまま生じるならば、その帰結はあまり幸福ではないのではないか。

自分は感情なんてものに永遠はない、いずれ冷めていくものだと思っているタイプの人間だけれども……好きなものは、たとえその想いが色褪せてしまったとしても、後悔には変わらないような在り方で、好きでいたいと思う。これは奇妙な高望みだろうか?

余談 神椿スタジオについて

めちゃくちゃdisってしまったが、特にアンチなわけでもファンなわけでもなく、なんかたまたま言及するにちょうどいいリリースが来たというだけなので返す返すも若干申し訳ない。
花譜ちゃんは割と早い段階から存在を認識していたし、楽曲も好き。ただ気づいたら最初のクラファンが終わってたということもあってか、当時の自分は今よりVにお熱だったのだけど、Vとしてのナラティブを求める対象にはならずにまぁ割と好きなアーティストというポジションに納まっている。
最近は専らヰ世界情緒のミックスリストを聴いている。仕事中に。

NFTについて

基本的には別にNFTである必要がない所に役割を見出そうとしていることが多いので良い印象は無いが、実を言うと挙げた事例のようにファンアイテムやファンディングの目玉としてのNFTは目的と価値の一致性が比較的高く、活用方法としては(まだ)筋が良い部類だとは思っている。
NFT以外にも企画としてかなり盛り込みすぎな感があるのでどう転ぶのかについては懐疑的だけども、ゆく末にはポジティブな意味で割と興味がある。
でもまぁ…自分の好きな子でやられたらどうだろうな。お気持ちに毛が生えた程度の価値なのに値付けは結構強気な傾向があるので。

DAO(Decentralized Autonomous Organization)

分散型自立組織、だそうで寡聞にして知らなかったのだけれども、本当にdecentralized(非中央的)なんですかね…?初期メンバーのトークン保有量に依るのでは?


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