捨てるための日記_26「怪異の行き先」
異界の場所やその行きかたは、わたしたちの日常によって変化する。
現実世界と異界の空間的な世界構造には、天界と地底界に現実世界が挟まれるという垂直的世界観と、山や海の彼方に異界があると考える水平的世界観がある。
例えば、小野篁が井戸から冥界へ行くのが垂直的世界観で、浦島子が常世の国へ行くのが水平的世界観である。
通常、他界と呼ばれる場所は死者の国なので一度行ったら戻ってはこられない。一方通行なのだ。
死者の魂が身体を離れたあともしばらくこの世にいるという考え方は喪の期間を長くする。わたしたちは死者の魂がゆっくりと他界へ移動するイメージとともに、人の死を受け入れていく。
また、人の往来はいろいろなものを集落に呼び込む。村が町に、町が都市になると多くの人が行きかう。良いものも悪いものも。
関所で止められなかった悪いものは、大きく膨れた都市のどこに出没するのか。「人が多く集まる場所」または「人が多く行きかう場所」である。それは繁華街であり、広場であり、駅であり、また辻(交差点)である。
良くないものは日常から地続きでそっと忍び寄ってくる。非日常だったものがやがて日常を侵食して、それが普通になる。日常の決まったルートをはずれると、見えていなかった全く違う風景が顔を出すのだ。
良くないものが地続きの異界を残しながら、他界は地続きではなく飛び越える(ジャンプする)ものになった。
死は日常から緩やかに受け入れていくものというより、日常から非日常への超越となった。生きていたときにあった居場所は、死者になることで一気にその場所を失い、移す。
死という方法以外で非日常へジャンプしようとするならば、つながるための窓口や扉、入り口が必要になる。日常にあって、日常を飛び越えつながるもの。電話、TV、インターネットである。
決まった番号、決まったチャンネル、決まったURLを辿ればそれは日常である。それらが逸れたところに異界はある。
インターネットは膨大な情報の塊だ。多くの情報はわたしたちにとって興味のないものであり、意味のわからないものであり、河原に転がっている石ころであり、ゴミ(ジャンク)の山でもある。
わたしたちはその石ころのなかから、自分にとってお気に入りの石を見つける。あるいは使えるジャンク品を探す。
わたしたちはたまにそこへ何かを放り込んでみる。基本的に異界へは一方通行だ。
かつてのインターネット広告はTVと同じだった。企業は出したい広告を多くのひとが目にする場所へ出す。わたしたちの視線は、インターネット上で興味をひかないあらゆるものをゴミだと認識する。
しかし、広告はカスタマイズされることで、異界への入り口になった。それはさりげなく日常に入り込む。河原の石ころやゴミだと思って見ていた文字や絵や写真のなかからわたしたちに語りかけてくる。
これはあなたに、あなただけに、向けられたものです
アルゴリズムはただそのプログラムに従って広告を表示する。そしてその先の保証はなにもしない。この入り口は決して出口にならず「戻る」は効かない。
映画『ポルターガイスト』ではクローゼットから消えた少女は別の場所から出てくる。引き返すことのできない一方通行だ。
異界は語りかける。
おまえはわれわれの仲間だ(わたしたちは常にさみしい)
こっちへ来い(ともにいよう)
おまえの欲しがる(見たい)真実を教えてやろう(くれてやろう)
異界は囁く。
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