テクニックとして「聞く力」を習得することの危険性
どの本にも「話すより聞くことが大事」と書かれていますが、『7つの習慣』を読んで、本当の意味での「聞く」ということを自分はわかっていなかったな、と思いました。
どんなリアクションが喜ばれるのか?
表情はどうしておくか?
目線はどこにおくか?
否定はしていないか?
自分の意見を言っていないか?
善悪を評価してしまっていないか?
というように割と具体的に書かれていることが多かったです。
実生活で活用するイメージが湧きやすく、とてもトライしやすかったです。
実際、やってみたこともたくさんあります。
だけど、なぜか少し違和感があって、効果もあまり感じないなと思っていたところでした。
「何聞けばいいかわかんない!」っていうのもありましたし、そもそもの素朴な疑問として「相手もこの事実を知っていて、両方聞く専になっちゃったら会話盛り上がらなくない?」というのがありました。
また、自分が聞くことばかり考えすぎて、相手が興味をもって自分に質問してくれても詳しい話はできず(話すより聞くだと思い込んでいるからです)、全然盛り上がらない・・・というような状況もありました。
だけど、『7つの習慣』を読んで、この違和感とか自分が陥っていた状況に説明がついたように思います。
そういったテクニックを駆使することは本質ではなかったんです。
自分はずっと表面的なことだけ実践していたんでせ。
こういったテクニックも効果的ですが、効果を発揮させるためには本質の理解と人格という土台が必要でした。
著者のコヴィーさんが直接語っているわけではありませんが、私が感じたことを以下に書きます。
本当の意味で「聞く」というのは、
まず一つは「主体的に聞く」ということ。
「聞く」というワードからなんとなく受動的なイメージがあり、相手が話すのを待つような感覚がありました。だから、「両方聞く専だったらどうするんだ」なんて思ってしまっていたんです。
それは大間違いで、自分から積極的に話しかける必要がありました。
相手に興味を持って、相手が力を注いでいることについて、前のめりに話しかけるんです。
もう一つ、一番の土台になるのは、「愛する」ということ。
人は誰しも自尊心を満たしてほしいと思っています。
それは前述の様々なテクニック本の根拠にもなっています。
ただ、この表面だけを学んで、それによって人の心や行動を動かそうとするのは、なんだか嫌です。ここに私の違和感がひとつあったのかなと思います。
相手を愛する具体的な行動として、相手の話をしっかりと聞く。
行動がだめだったというよりは、行動の根拠が間違っていました。
そしてそれはきっと相手にも伝わります。
下心をもって相手の話を聞いたことも、愛をもって相手の話を聞いたことも、両方したことがあるから、わかります。
それに、愛することが根拠なら、上記の私の悩みも解決します。
自分の話をしてはいけないと縛られる必要もないですし、
相手に寄り添いたいと思っているから相手の話を聞くのは当然ですし、
愛していたら相手を否定するなんて考えず、最後まで話を聞くはずです。
自分の意見や善悪の基準を押し付けようなんてことも思いません。
愛することができていれば、「聞く」という行為はすべて自然で率直なはずなんです。
上記のテクニックなどは知っておくにはいいと思いますが、自分の人格から発生するものでないと、不自然だし、心が通じ合えているとはいえない。
相手を動かそうという上下関係が透けて見えます。
このことに気付いてから、より相手を大事にできている感覚が確実にあって、相手が嬉しそうに話してくれることで自分も心の底から会話を楽しめるようになりました。