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なんでみんな走ってるの?集団心理とランニングブーム

ランニングは一体、いつからこんなに流行りだしたのか。公園には朝も夜も、走る人が絶えない。靴もおしゃれ、ウェアもピカピカ。ピタッとしたランニングタイツに身を包んだ人々が、黙々とアスファルトを蹴り、前に進んでいる。いやいや、ちょっと待ってくれよ。なんでそんなに走ってるの?何かに追われてるの?それとも集団催眠にでもかかってるのか。

ランニングの集団心理というものは、不思議なものだ。誰かが始めた途端、まるで誘われるように周りの人も走り出す。「あの人が走ってるなら、私もやってみようかしら」と、軽い気持ちで始める人も多い。気づけば、家族や友人、職場の同僚までランニングウェアを揃え出し、ランニングアプリで距離を競い合う始末だ。実際に走るつもりはなかったのに、いつの間にか「週末はラン!」なんて言葉が当たり前になっている。まるで、知らないうちにランニング教団に入信したかのようだ。

ところで、ランニングを始めた理由を人に尋ねると、ほとんどの答えが「健康のため」「ダイエットのため」といった無難なものである。だが、実際のところ、その答えは本当なのだろうか。ある日、ランニング仲間にその話をすると、しばらく考え込んだ後、こう言った。「正直、最初はみんなやってるから始めただけなんだよね。でも気づいたら、走らないと罪悪感を感じるようになっちゃったんだ。」

罪悪感?え、罪悪感ってなんだ?走らなきゃいけない決まりなんてあったっけ?ランニングはどこかの宗教の儀式か何かだったのか?この問いに対しては、おそらく「ソファでだらけてポテチを食べている自分」との戦いという側面もあるのだろう。集団心理に煽られて走り出した結果、今度は「自分はちゃんとやってる!」という証明を続けるために、ランニングという義務感が生まれてしまうのだ。

そんなある日、公園でランニング中のカップルを見かけた。彼女は楽しそうに走っているが、彼氏の方は明らかに死にそうな顔をしている。顔面蒼白、息は荒く、なんとかついて行こうと必死だ。おそらく「一緒に走ろうよ」と彼女に誘われ、渋々始めたのだろうが、もはやデートではなく拷問に近い。ランニングデートという新たな苦行が生まれた瞬間だ。

しかし、よく考えてみると、ランニングは最もシンプルなスポーツだ。道具も場所もいらないし、いつでもどこでも始められる。誰かが走り始めれば、自然とその流れに乗ってしまうのも無理はない。そして、気づけば人はその集団の中に溶け込み、「みんなと同じように走ること」が目的になっていくのだ。

ランニングブームの背後には、集団心理の影響が少なからずある。「みんながやってるから」と始めたはずなのに、いつの間にか「走らない自分」が許せなくなる。結局のところ、私たちは走ることで、社会の一員であることを確認し、罪悪感を消し去り、ソファとポテチとの闘いに勝利しているのかもしれない。

だから今日もまた、何も考えずに靴ひもを結び、集団心理に背中を押されて公園に飛び出す。そして、気づけば笑顔で走っている。そう、なんでみんな走ってるのかって?それはもう、「みんなが走ってるから」だよ。

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