見出し画像

強がりだと思っている

いま、悩んでいるというか取り組んでいることについて書く。

なんでもできると思っていた

小学校、中学校では運動もでき勉強もでき、先生からも信頼され、周囲の人からは頼られる、そんな絵に描いたような優等生が私だった。なんでもできて当然だったし、いやすごい天才だな、とか思ってた。ただそんな思い違い状態は長くは続かず儚くも高校で崩れる。高校では同世代で同学力の人たちが集められる。(高校を決めるときは落ちこぼれないように自分の学力より少し低いところを選んでいたが)その後大学受験も失敗した。望んだ大学ではない大学でも成績は、中の上だった。

その過程で手に入れたものは、自分のプライドを守るため言い訳の上手さだった。

築き上げた自分を守る鎧

自分のプライドを守るためだけにどんどん言い訳が上手くなる、誇大的に表現することが多くなる、さらに言い訳をして嘘をつくことに何も感じなくなる。そんなとんでもない鎧をいつの間にか装着していた。

この鎧、なかなか脱げない。しかも自分を守るためにという名目でできなくなることが多い。余力を残して失敗したときのため何事も全力でできなくなる、そもそも挑戦しなくなる誰かに評価されるのが怖くなる。これらが私の後半の人生を占めている気がする。

失敗が怖いと感じる方は私と同様のことを感じる方も多いのではと思う。わかっていてもなかなか変えることができない。もちろんこの不安があるからめちゃくちゃ準備に時間もかけるし、めちゃくちゃ練習もするというように良いこともある。ただそれ以前の根本の問題で挑戦しなくなったら意味がない。


このなかなか脱ぐことができない鎧だが、最近新たな不自由に気付いた。日本にいたらおそらく、私は感じることができなかったかもしれない。


人に助けを求めるということ

海外に住んでいると余計だが、どこにいても人間1人では生きていけない。いや生活はしていけるが、仕事を上手く進めたり、充実した生活をしようと思うと1人では生きていくなんてとんでもない。

では、誰かに助けてもらえば良い、と思うことはできる。ただ今まで人に頼ってこなかった人は頼り方がわからない。

わからないというよりも、助けを求めるということは自分の弱いところ、できないところを認めなければいけない。かつそれを他人にさらけ出さなければいけない。プライドがあって強がりな私にはできなかった。おそらく今でもできていない。

人に助けを求めることは弱いからできるのではなくて、自分の弱さを認める強さがあるからできることである。

いま、していることはとても怖いが自分のありのままを曝け出すこと。文字におこすことは簡単だが、自分の鎧が邪魔して良いとことか少し誇大して話したりしてしまう。ただそこは我慢してとりあえず放り投げてみること。自分というものを放り投げてみることを実践しているし続けていきたい。正解はない、日々の意識の変化の積み重ねだと思っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?