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【短編小説】言霊

「気持ちいい朝だな」

N氏はベッドから起きだし、カーテンを開け青空を眺める。
それから昨日帰りがけに雑貨屋で買ったラスクを朝食がわりにかじり、マグカップにたっぷりのお茶を一口啜った。

「うん、美味い」

恋人に今夜電話するとメールを送る。
そしてベランダのモンステラの鉢に水をやり、身仕度を整えると家を出た。
陽射しは暖かく穏やかだ。
近隣に住む年配の女性とすれ違った。
N氏は「いい朝ですね」と彼女に声をかけた。「そうですね」と彼女はN氏に微笑み返す。
しばらく歩き、N氏は
「いい朝だ」と再び呟く。

✳︎

オフィスに到着する。
一日のスケジュール、ノルマを確認し、一つひとつ声に出して読み上げる。毎朝の日課だ。

「毎日よくやるな」

同僚のS氏が声を掛けてくる。

「やあS氏。おはよう」

N氏の挨拶に欠伸で応えてからS氏は

「その読み上げは、何か意味があるのか?」

と言った。
少し間を置き、

「言霊は人生を形作る」

とN氏は言う。

「何だって?」

眉間に皺を寄せるS氏にN氏は向き直る。

「言葉の力のことさ。物事は言葉にすることで初めて意味を持つんだ。例えば何かを食べたとして、人はその食べ物が美味しいと思うから『美味しい』と言うんじゃない。『美味しい』と言うことでそれが美味しいと感じるんだ。
スピリチュアルな話だけど、唯名論みたいなものだと考えてもらってもいいと思う。僕もどこでこの言葉を学んだかは忘れてしまったけどね。『言霊は人生を形作る』というのが僕のモットーなんだ」

「じゃあスケジュールを読み上げるのもその一環てことか」

「おまじないみたいなものだけどね。言葉にすれば、それに従わざるをえないだろう?」

S氏はそんなもんかね、と自分から訊いておいて興味のなさそうな返事をした。

「しっかり仕事をしつつ人間らしい生活をおくっていくための秘訣さ。それじゃあそろそろ行くよ」

N氏はS氏に別れを告げオフィスを出る。時間はスケジュール通りだ。
N氏は空を見上げる。
いつの間にか空には雲が垂れ込み、雨が降り出していた。

「いい1日になりそうだ」

✳︎

月末のミーティングでは部長が一人ひとりの目標の進捗状況を読み上げる。芳しくない数字が続き、締めくくりに恒例の檄が飛ぶ。
ミーティングが終わるとS氏がN氏に言った。

「一人だけ絶好調じゃないか。ノルマをクリアしているのはN氏だけだ」

ありがとう、と応じるN氏。

「何かコツがあるのか」

「ないよ。でもモットーは大切にしている。言葉にすれば自然とその通りになるものさ」

「そんなおまじないの話なんて−」

気配を感じて振り返ると、二人の背後にいつの間にか部長が立っていた。

「S君、無駄話もいいが、それより目標達成に向けてもっとやるべきことがあるんじゃないか?」

慌てて取り繕うS氏に部長は厳しい一瞥をくれた後、

「それに比べてN君は優秀だな。お客様からの評判も実にいい。いつも時間通りだし、口にしたことは必ず守る、正確無比な機械のような男だと褒めていたよ」

と笑った。

「これからも是非頑張ってくれよ」

部長はN氏の肩を叩いて去って行った。
部長に聞こえない距離になってからS氏は

「社会の歯車は辛いぜ」
と自嘲気味に言った。N氏は曖昧に笑い返した。

正確無比な機械のような男。
その言葉がいつまでもN氏頭の中にこびりついていた。

✳︎

「気持ちいい朝だな」

N氏はベッドから起きだし、とカーテンを開け空を眺める。
それから朝食を摂り、お茶を飲んだ。

「うん、美味い」

恋人に今夜電話するとメールを送る。
そしてベランダのモンステラの鉢に水をやり、身仕度を整えると家を出た。
近隣に住む年配の女性とすれ違う。
N氏は「いい朝ですね」と声をかけた。彼女は「そうですね」と言い、くすりと笑った。

「…何か?」

「いえ、毎朝この時間に同じように声を掛けて下さるから。真面目で時間に正確な方だなと思って。お気に障ったらごめんなさい。では…」

N氏は女性にぎこちなく会釈しその場を後にした。

オフィスに到着する。
一日のスケジュール、ノルマを確認し、一つひとつ声に出して読み上げる。
毎朝の日課だ。
だが、頭の中は再び部長のあの言葉でいっぱいになっていた。

オフィスを出て営業先を回る。
得意先の人といつも通り会話をする。
しかしその中で、相手が「いつも正確だね」などといった言葉を口にすると気になって仕方がなかった。
その度に、私のことを「正確無比な機械のような男」と言ったのはこの人かと考えてしまい、表情が強張る。慌てて、努めてすぐに笑顔を取り戻す。
言ったのがこの人でなくても、この人も内心そう思っているのでは。
余計な考えばかりが浮かび、慌てて打ち消す。
そして時間通りに次の営業先を回り、仕事をこなしていく。正確無比に、機械のように。

頭の中で何かが外れた、そんな気がした。

✳︎

「休みをもらえませんか」

起き抜けにそんな電話を会社にかけたのは初めてだった。
了承が得られるとN氏は再びベッドに沈み込んだ。
近頃睡眠をとれていなかった。
ベッドに横になってもなお、あの言葉が頭から離れないのだ。
部長の顔が脳裏に蘇る。
今までの自分の全てが否定されたようだった。
やるべきことはやってきた。その上で日常の些細なことにも幸せを見出そうとしてきた。
何がいけないというのか。

「私は、人間らしい生活をおくりたいだけなのに…」

体が鉛でできているように重い。
手足を動かすと軋むようだ。

「もう限界だ…」

N氏は恋人に電話をかけた。

✳︎

恋人は仕事中だったが、時間を作ってN氏を個人オフィスに迎え入れてくれた。N氏は着くなりオフィスのソファに横になった。

「一体どうしたの」

彼女は労わるようにN氏の隣りに腰掛け尋ねた。

「自分が分からないんだ」

N氏は呻いた。

「上司に『機械のようだ』と言われてね。…僕は最早、本当に自分が機械なんじゃないかと思っている。むしろ今まで自分をまともな人間だと思っていたことがおかしく思えて仕方がないくらいなんだ。人間らしい生活をするために毎日毎日働いて、僕はなんでそんなに懸命になっていたんだろう。
人間らしい生活だって?それじゃあまるで僕が人間じゃない何かみたいじゃないか。僕の人生って?僕は仕事以外に何をしてきた?休暇だって今までろくにとった記憶もない。君とだって、電話をしたり、たまに君のオフィスに会いに来るだけで、デートに行ったことすらない。両親や家族とも全く連絡を取っていない。なぜ彼らも僕のことを心配して電話をしてくれないんだ?
僕は社会の歯車でしかないんだ。機械と何の変わりもないんだ...」

N氏はまくし立てた。

「ねえ、きっと疲れてるのよ。ゆっくり休んで」

「ああ、ありがとう。
ずっと頭が重いんだ。さっきからまるで歯車のような音が頭の中で鳴り響いていて本当に機械になってしまった気分だ...とても眠れそうにないんだ…」

「可哀想に。私が眠らせてあげるから。
大丈夫よ。さあゆっくり目を閉じて…」

彼女は優しくN氏の額に手を当て、それからゆっくり頭を撫でた。

N氏はすっかり眠ってしまった。
彼女はN氏の寝顔を見つめ、
「なんとかしなくちゃ...」とため息をつく。

それからゆっくり立ち上がり、デスクの抽斗から小ぶりな折りたたみナイフを取り出した。

彼女はN氏の前髪をそっと掻きあげた。
そして、N氏の前髪の生え際を目掛けてナイフを振り下ろした。
N氏の体がびくんと仰け反り声を上げる。ナイフがめり込み赤い飛沫が飛び散った。彼女はそれを気にも留めない。
ナイフを力任せに動かす。額と頭皮の肉が裂ける音とともに再び赤い飛沫が散る。露出した白い頭蓋の継ぎ目にナイフの先を押し込みテコのように動かす。
そして、バキッという、硬い、嫌な音とともにN氏の頭蓋の一部が開いた。
赤黒くぬめるその中に、彼女はそっと指を差し入れる。

それから彼女は立ち上がり、ポケットから携帯電話を取り出し電話をかけた。

「朝早くすみません。彼が来ていて…。
頭の中から歯車の音がするなんて言い出すから、私、焦っちゃって…見てみたんです、頭をこじ開けて。
...彼は眠っていて、今はもう動かないです」

電話口の向こうからは慌てた声がする。

「ええ、でも私、心配になっちゃって…
開けてみた結果、驚いたんですが、本当に一部の歯車に不具合があって軋んでいたんです」

そう話しながら、彼女はようやく自分の手や頬が飛び散った擬似血液に染まっていることに気づいた様子で、白衣の袖で拭う。そしてため息交じりに話を続ける。

「ええ、整備部にクレームを入れておいて下さい。
…産業用ロボットのAIに感情を持たせるというのは、まだまだ前途多難ですね。感情言語を学習させ、発声、反芻させることで感情を定着させるというアプローチ自体は間違っていないと思うのですが」

電話の向こうの声も応じる。

『それは分かっている。
もともと無感情のロボットとだと仕事がしづらいというニーズに応えての開発・実験だからね。我が社の開発しているAI、『KOTODAMA』の重要なサンプルでもある。君の研究には期待をしてるよ』

「ありがとうございます。今回のトラブルは感情形成過程でのバグか、構造的な欠陥によるものか詳しい検証が必要ですね。
ただ、彼は職場での成績は良好で、上司や同僚、顧客も彼がロボットだと気づいていなかったようですから、実験の収穫はありました」

その時N氏の携帯電話が、メールの受信を知らせるランプを点滅させた。
彼女は通話しながらその内容を読み、くすりと笑った。

「それに収穫はもう一つ。友達も出来たみたいです」

メールの主はS氏だった。
ぶっきらぼうな文面だったが、
N氏の体調不良を知り、食べ物や薬を買っていってやるから住所を教えろ、という内容だった。

「よかったわね」
と彼女はN氏に声をかける。返答はないと、わかっていようとも。

終わり

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