うら話『空間転移装置へようこそ』について
過去に投稿した小説を書いたとき、どんなことを考えたのかや、その経緯を書いていきます。
飽くまで「書き手としてはこうでした」ということで、それを読み手がどう受け取るかは自由です。
あらすじ
物語の冒頭には、「Aside」と表記されています。
主人公瓜澤裕二が帰省するシーンから始まります。実家への移動手段として「空間転移装置」(目的地へ瞬間移動できる)を利用しますが、不具合が発生。運営会社へ連絡すると、運営会社の作業員がやってきて拉致、監禁されてしまいます。
どうにか監禁場所から逃げ、実家に到着すると、そこには自分とそっくりな男がいる――というシーンで一旦終わります。
次に「Bside」という表記の物語が始まります。
こちらでも瓜澤裕二を主人公に「Aside」と同様のストーリーが展開します。しかし、「空間転移装置」は正常に作動し、トラブルもなく実家に帰省、穏やかに過ごします。
つまり、「空間転移装置」の使用を分岐点として瓜澤裕二は二人に”増殖”しており、それぞれの視点から「Aside」と「Bside」が並行して進んでいきます。
そして、二人の瓜澤裕二が出会い、物語は大きく動いて結末を迎えます。
鍵となる「空間転移装置」とは
空間転移装置は「目的地へ瞬間移動できる装置」として売り出されていますが、実際はそうではないことが物語の最後に明かされます。
出発地点の装置で転移させる人(物)をスキャンし、到着地点の装置で全く同じものを作り出す。そして出発地点の人(物)を分解する、ということを行っているのです。
つまり、空間転移装置を利用すると、「コピー」が生成され、「オリジナル」は分解されることとなります(めっちゃこわい)。
しかし、主人公瓜澤裕二が空間転移装置を利用したとき、誤作動で最後の「オリジナル」分解工程が行われず、二人の瓜澤裕二が生まれてしまいました。さて、この場合、”本物の瓜澤裕二”は、「オリジナル」と「コピー」どちらでしょうか。
「それはオリジナルの方でしょ」
と直感的に感じる人が多いでしょう(「オリジナル」という表現がミスリードになってしまってるといけないですが)。私もそう感じます。
しかし、実は、これが難しい問題なのです。
物語の問いは「生物の動的平衡」
なぜ難しいのか。
それは、「生物の動的平衡(どうてきへいこう)」という現象があるからです。分かりやすい例として、『テセウスの船』という寓話があります。
テセウスの船
テセウスの船は後世へ受け継がれていった。しかし建材の老朽化に伴い、古くなった箇所が段々と新しい部品へ置き換えられていった。――さて、すべての部品が更新されてしまった船は、当初の船と同一の船であろうか? もはやオリジナルの部品が全くない以上、もはや全く別個の個体と言ってしかるべきではないのか?
weblio辞書より抜粋、一部編集
こうしたことは、日々新陳代謝を繰り返す生物の体でも起こっています。それは我々人間も同様です。人体を構成する細胞は、2年程度で全て入れ替わると言われています。
私たち(少なくとも私)は、今存在する肉体、感覚器官は生来固有のものであり、それこそが”自分”の存在を担保すると、感覚的に認識しています。しかし、「生物の動的平衡」によると、そうではないことが分かります。生物学者の福岡伸一は、「生命とは、実は流れゆく分子の淀みにすぎない」とさえ言っています。
では、生物、そして自分とは何なのか。魂という概念で考えられるのではという意見もあろうかと思いますが、それは存在自体が不確かなので何とも言えません。
なんだか、自分という存在が揺らいでくる感覚になりますよね。
細胞レベルで考えれば、生物とは「同じ設計図(DNA)による構築物」と言えると思います。
それを踏まえてもう一度、この物語の問いを考えてみます。
二人の瓜澤裕二は、どちらも「同じ設計図(DNA)による構築物」と言えます。
それでは”本物の瓜澤裕二”はどちらでしょうか。
(ちなみに瓜澤裕二という名前は「瓜二つ」からきています…)
以上を踏まえてもう一度読んでいただけると、また味わいが変わるかもしれません。
まだ読んでいない人も、ぜひ。
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