見出し画像

お前らの山月記 1

何年も前のもののため、ネタがやや古いのはご容赦下さい。中島敦は最高。

  お前らの山月記

 ✳︎

佐川は博学才頴、現役して最高学府に歩を進め、ついでことごとく最優秀の成績で単位を修めたが、性、陰険、萌え系統の春画に遊蕩すること甚だしく、現(うつつ)の女人との交遊を良しとしなかった。


いくばくもなく学問から距離を置いた後は、下宿に蟄居し、人と交わりを絶って、ひたすら同人漫画の創作に耽った。学術を身につけ然る後に世の中の歯車として生きるよりは、己の創作によって世に名を馳せようとしたのである。

 しかし名は容易に揚がらず、郷里からの仕送りのみで耐える生活は日をおうて苦しくなる。

 佐川はようやく焦躁に駆られてきた。この頃からその容貌も峭刻となり、肉つき骨は埋没し、眼光のみいたずらに炯々(けいけい)として、かつて偏差値を身の拠り所として息巻いていた根暗少年も、今では人としての面影すらない。
 
数年のうち、佐川は深夜に空腹を感じ、自宅近くのコンビニエンス・ストアに足を向けた。その店内で、佐川は、かつて鈍物として歯牙にもかけなかった同輩が女を引き連れて買い物に勤しんでいるのを目撃する。

奇しくもその日は聖夜、二千年の昔遥か西方にて神の子と称えられた髭男が誕生したその日であった。店内ラジオからはタツロウ・ヤマシタのアンニュイな歌声が響く。それが往年の純潔佐川の嫉妬心を如何に煽ったかは、想像に難くない。彼はついに発狂、何か訳の分からぬことを叫びつつそのまま店から飛び出して、闇の中へ消えた。そのまま彼は二度と戻って来なかった。捜索する者もいなかった。

 
 
  *
 
 

翌年、東條という者、その春採用されたばかりの商社にて残業にあたり、未明に家路に就いた。街灯のない道を残月の光を頼りに、よもや追いはぎなど出るまいなと用心して行ったとき、果たして一つの人影が草むらの中から躍り出た。人影は、あわや東條に躍りかかると見えたが、たちまち身を翻して、元の草むらに隠れた。草むらの中から人間の声で
 
「あぶないところだった」
 
と繰り返し呟くのが聞こえた。その声に東條は聞き憶えがあった。驚懼(きょうく)の中にも、彼は咄嗟に思いあたって、叫んだ。
 
「その声は、我が友、佐川君ではないか?」
 
東條は佐川と同年に最高学府に進み、友人が皆無であった佐川にとっては、唯一にして最も親しい友であった。温和で分け隔てのない東條の性格が、陰気な佐川にも親しみやすかったためであろう。
 
草むらの中からは、しばらく返事が無かった。しのび泣きかと思われる微かな声が時々漏れるばかりである。ややあって、低い声が答えた。
 
「いかにも自分は佐川である」
 
と。東條は恐怖を忘れ、草むらに近づき、久闊を叙した。そして何故草むらから出てこないのかと問うた。佐川の声が答えて言う。
 
「自分は今や異類の身となっている。どうして、おめおめと友の前にあさましい姿をさらせようか。かつ又、自分が姿を現わせば、必ず君に生理的不快の情を起こさせるに決まっているからだ。しかし、今、測らずとも友に会うことを得て、愧赧(きたん)の念をも忘れるほどに懐かしい。どうか、ほんのしばらくでいいから、我が醜悪な今の外形を厭わず、かつて君の友佐川であったこの自分と話を交してくれないだろうか」
 
後で考えれば不思議だったが、その時、東條は、少しも怪しまずに、突如現れ、異常なまでの体臭を纏うかつての友を受け容れた。巷の噂、同輩の消息、東條の就職先、それに対する佐川の祝辞。青年時代に親しかった者同士の、あの隔てのない語調で、それらが語られた後、東條は、佐川が姿を消した後、どうしていたのかを尋ねた。草中の声は、次のように語った。


続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?