「こんな姿になりたくない」
正月に久しぶりに幼なじみの友人たちと集まった。
男6人、いつも集まってゲームばかりしてるような仲間だった。
今年はコロナということもあり、地元の神社での餅つきが中止になり、今年家を建てた友人宅で集まることに。(1人は都合で来れなかったが)
あの頃と同じように − 違うのは、スマブラが5人同時に遊べることと、コーラがビールになったことくらい − ひたすらスマブラに明け暮れた。気付けば年もまたいでいた。
・・・
スマブラにも飽き、年越し蕎麦をたべていたらひょんなことからお互いの仕事の話に。小学生からの付き合いもいまはもう30歳のおじさんのあつまりだ。
自分以外は頭の出来が良く、みないい大学に入り、いい会社に入っていた。
しかし、1人を除いてみな仕事を辞めていた。
結婚して、家を建て、こどもを産み…といういわゆる王道コースを進んでいたやつも。
給料もいいし、安定もしてる。自分は持ってない環境にいるのにそれを手放した理由を聴いてみた。
「仕事がおもんない」「(上司をさして)あんな姿になりたくない」「薬を飲みながら身体をを壊してまで…」
だいぶアルコールが回っていたので、一言一句あってるわけじゃないが、そんなことをみな言っていた。
「最近全然眠れない」と漏らす友人に、その背景も知らずには何も言うことができなかった。
大企業で働くひとたちもその仕事やサービスでだれかの生活を支え、お給料で家族の暮らしや笑顔も守っているので、一括りに悪くいうことはできない。ほんの一部を知っただけだし。
けど、犠牲にしているものもおおきいなぁと感じずにはいられない。
仕事を辞めた友人たちは、そんな会社のレールの先にいる人たちを見て、身体を、心を殺してしまう前に、レールを降り、自分のために一歩踏み出せたんだろう。
・・・
自分は、自分らしく暮らし、働き、生きることを選んだ。
正直、生活や社会的立場が不安定なところも否めない。手に入れられなかったものもある。
逆に言えば自分の軸を曲げれば、手に入れられるものもあるだろう。
しかし、それでなにかを手に入れたとしても「しあわせ」とはまた別のもなんだろうと、今回の友人たちの姿や言葉を受け取って感じた。
誰かのしあわせを自分が勝手に定義することはできない。
自分は自分がしあわせだと思える環境を、少しづつ少しづつ、つくりあげていくだけだ。
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