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姉、サバイバー

私にとって3つ年上の姉は、小さい頃からずっと畏怖する存在でした。彼女は「丙(ひのえ)午(うま)」の1966年生まれ。その年、ひのえうま迷信を信じる人が根強く、出生数が前年より25%も落ち込んだのだそうです。ひのえうま迷信は簡単にいえば1683年に江戸時代の八百屋の娘・お七(1666年丙午生まれ)が放火事件を起こし、火炙りの刑(野蛮!)に処されたのが→丙午生まれの女性は気性が激しく夫の命を縮める(夫を食い殺す)という迷信に変化したのだとされています。

wikiよりお七

私自身、迷信を信じることはほとんどないといえばない、いやあるといえばある、例えば厄年だった33歳には、海外に住んでいれば厄年は関係なくなるとホッとした記憶があるそういう人。こうやって姉を紹介するのに、姉は丙午生まれで、なんて書いてしまうのはフェアじゃないなと思いながらも、八百屋の娘お七のクレイジーな行動パターンがまるで姉をよく言い表していると思ってしまうタチの悪さです。

子供の頃、両親とも働いていたので、我々3人(姉、双子の兄、私)(と犬一匹)だけで家で過ごすことが多かったので、自然に家の中を仕切るのは年が一番上の姉です。子供同士の小さな言い争い(誰が犬の散歩に行くか、誰が買い物に行って、誰がトイレ掃除をするなど)はほとんどの場合はなぜか修羅場になり、姉は据わった目で残り二人の子供を本気で脅していました。台所から持ち出した包丁を私たちに向けているのか向けていないのかガツンと振り下ろすので、うちにある包丁の先は欠けたり曲がったりしていたものです。

Not another cooking show

今でこそ、みなさん「突然キレる」という表現を使用できますから、後で周りの人に姉が突然キレてと説明すれば、ああ、そうなのねと納得してもらえる簡易な語彙があり便利ですが、私が子供の頃にその表現はなかった。包丁の欠けた理由や、壁に空いた穴を後で母に説明するのに、喧嘩したんだというと母がため息をついて私は微妙に押し黙っていたものでした。その時に母に「姉が急にキレたんだ」ということできたらよりよくその状況を言い表せたかと悔やまれます。いえ、状況が簡潔に表現できたとしても、だからと言って母の気苦労が軽くなったわけではないのでしょうが。

後で聞くと兄は大きくなって力持ちになったら絶対姉を負かしてやると心に誓っていたそうですが、私はすでにまだ幼い時に一度復讐を試みたことがあります、

シリカゲルで。

シリカゲルで!?

海苔の袋に入ってくるシリカゲル。鰹節の袋に入ってくるシリカゲル。あられ、お煎餅、クッキーのシリカゲル。母は看護師長をしていたので、その時代、デパ地下に売っているヨックモックシガール、鳩サブレ、ユーハイムバウムクーヘン、神戸風月堂ゴーフル、カステラと詰所にお礼と言って持ち込まれた大量のお菓子缶のお裾分けをよく家に持って帰ってきてくれたものでした。透明なつぶつぶ、小袋に詰められた乾燥剤がいっぱい入っています。ちょっと怖い「食べられません」の表示。私は毎日毎日そのシリカゲルを復讐のために溜め込んでおきました。クッキーが乾燥するならば、人間も乾燥するんだろう、もし、100倍の量を使えば、姉をミイラにすることができるのではないか。

決行の日、私は溜め込んだシリカゲルの袋を破り、つぶつぶを姉のベッドのシーツの下に大量に撒いたのです、ミイラになーれ、明日の朝には、ミイラになーれ。

夜中、ザラザラつぶつぶにすぐ気がついた姉は大声で母を呼び、母は掃除機でシリカゲルを吸い込む。そこからはよく覚えていませんが、私の仕業ということは間も無く発覚し、それから5年くらいは姉がとても嬉しそうに、「シリカゲル覚えてる?」と私を指差して思い出しては大笑いをしていました。姉は残念ながら強運の持ち主で、ミイラにはならなかったのです(いえ、すみません、強運でなくてもシリカゲルでは復讐できません、食べ物に混ぜたりしなくてよかった→昔の私へ)。

その強運の持ち主の姉はなぜかとてもモテました。大勢の人に憧れられるというモテ方ではなく、少ない人数に強烈に。姉がまだ高校生だった頃、塾で英語を教えていた先生がよくうちに遊びに来て、もとい、姉に会いに来ていました。私は中学生だったので、何も知らないながらもなんであの先生はうちに何度も来るのだろうと不思議に思っていたものです。女子高校生相手に30歳そこそこの先生が結婚したいと言う、今でこそパパ活なんかがありますが、大人びた高校生がいる東京でさえ先生と高校生の恋愛は両親にとっては前代未聞、問答無用の聞かなかったことにするから今すぐ帰ってくださいの大問題。昔ならなおのことです。姉にとってはなんでもないこと、今でいう「ちょ、キモい」の感覚だったのか、高校卒業した後でもその先生といきなり結婚とかそういうことにはならなかったので、どこかであっさりと決着がついたのかもしれません。この頃になると私の姉に対する畏怖の念は、ちょっと説明のつかない憧れと混じり合うようになっていました。

高校で姉はバレーボールのアタッカーになり、大きな声と迫力を持ち、マックスと呼ばれるようになり、英語で言うMax=Maximum (最大)の名に負けることもありませんでした。お料理をやらせるとピタリとした塩加減で決め、字を書かせるとはっとするようなおおらかさと潔さがあり、就職先で、「こんな字を書く奴に悪い奴がいるはずがないと思った」と(中小企業の)社長に褒められ即採用(昔は履歴書は手書きだったんです)。営業をやらせるとずば抜けて1位。飛び込みの営業も何の苦にもならないらしく、一時期は生保レディとしてスーツで顧客開拓をブンブンやらされていました。私は大学卒業後すぐに姉から呼び出されて2件の生命保険に入らされました。年金で戻ってくるんだからいいの、1件は姉の会社の生命保険、もう1件は姉の友達の会社の生命保険、それだけで他に何も説明ないままに押した印鑑でした。ピアノをうまくアドリブで弾き自宅カラオケさながら歌い、高音が大声で出るので、母の友人たちおばちゃんから大喝采。緑色のオープンカー(ユーノスロードスター)(初代)にのり、好きな服を買いまくり、でも部屋に遊びに行くといわゆる汚部屋。あきれた私が床に散乱したスーツを全部クリーニングに持って行くと、スーツからはタバコと汚れの匂いがしてクリーニングのおばさんがあからさまに嫌な顔をしてもう一歩で断られるかと思いコソコソと逃げ帰った私だけど、姉だったら平気だったに違いありません。そういうのが全然気にならない人。

ユーノスロードスターなどで大借金だったはず

その頃、自己啓発セミナーがちょうど流行りだしていて、私は姉に無理やり誘われてその頃の元彼(その時はゴメンね)と一緒に参加させられました。トレーナーの指示にしたがって「本当の自分を見つけ」「可能性を開き」「自己の殻を打ち破る」セミナーのことです。

20〜50人の合宿。
1.ネガティブ・フィードバック
グループを組んで、メンバーの悪いところを容赦なく指摘する。はっきり言えない人はトレーナーに徹底的に罵倒される。
この段階で泣き出す人も多い。自己否定のはじまり。

2.ボートの実習
全員が床にすわり、船が難破した場面をイメージ。5人乗りの救命ボートが一艘だけあって、それに乗らねば助からないことを告げられる。
(部屋は薄暗く、波の音がBGMとして流れ、集団催眠におちいる。)
全員が「助かりたい!」「生きたい!」と腹の底から叫ばされる。
その後、メンバーの中で生き残ってほしい人を5人きめる。その5人に入れなかったものは”死亡”し、生き残る5人に(いちばん大切な人への)メッセージを託す。

3.ダンス
トレーナーが「おや、光が見えます。ここは病院のベットの上です。あなたは奇跡的に助かったのです!」と言う。部屋が明るくなる。
全員が抱き合って感動をわかちあう(集団催眠にかかっているので)。
大音量で音楽がかかり、トレーナーの「さあ踊って!」という合図とともに、会場がディスコと化す。全員が感動のあまり踊り狂う。

https://silver801.hatenablog.com/entry/2017/02/08/210611

姉の理由のないポジティブさがこのセミナーで水を得て、ボートの実習では50人中生き残れる5人の一人に選ばれました(もちろん私も私の元カレも死ぬ人)。「助かりたい!」「生きたい!」と腹の底から叫ばされるこの実習で、私はどうしても「恥ずかしいから死んでもいいや」感を捨てることができなかったのですが、姉は100%コミットメントで大声量で「生きたい!」と誰よりも大きな声で誰よりも凄まじい迫力で、なんなら包丁をブンっと机にブッ立てて叫ぶことができたのです。このサバイバーと呼ばれる5人に選ばれるということはそのセミナーの中ではすごいことで、「選ばれしサバイバー」として姉は堂々としていました。その理由のない特別な存在感がトレーナーに見染められて、姉はその後、あるトレーナーに、赤坂で店を持たないかと持ちかけられることとなります。

「あのね、お客さんの名前は一度で覚えるの。開口一番、(そのお客さんの)名前を呼ぶのよ。野球、競馬、釣り、ゴルフ、ラーメン、好きそうな話題は外さない」

赤坂のお店は強烈な少数のファンに支えられ、結構繁盛はしていたらしいですが、法外な場台(家賃)が払えずに数年で閉めることになります。この時、赤坂で店をやらないかと持ちかけてきたこのトレーナーが、自己啓発による成功者のような振る舞いをした自信たっぷりおじさんだったので、法外な場台(家賃)はこのおじさんにピンハネされていたに違いありません。しかも、この自己啓発セミナートレーナーのおじさん、これからは中国(チャイナ)で有機野菜を流行らせるビジネスをさも前途洋洋の大船乗りで姉と母を説得し、母から500万の融資を受けたそうです(いわゆる借金)。あとでこのおじさんから貸したお金を返してもらうのに、姉も母も全くどうしていいのかわからず、丸投げされた兄が足を使って時間をかけておじさんの居所をつかみ、時には尾行のようなことをしてようやくこのおじさんの妻の職場を発見し、毎月借金返済の手筈を整えたのだそうです(兄がこの辺のところ、noteで書いてくれないかな*)。このころ、赤坂のお店で四苦八苦していたころ、姉は出会った男性とあっという間に結婚しています。

*追記(書いてくれました!)

本人たちにしかわからないことがたくさんあるでしょうから、なんとなくの聞きかじりだけではなんとも言えないのですが、数年後に姉夫婦は離婚、驚きませんでした。兄と私の間ではこの時、姉は自己破産手続きしたのでは、と推測していますが、本当のところは直接聞いていません。

八百屋の娘・お七に話を戻すと

八百屋の娘・お七の家は火事で焼け出され、お七は親とともに正仙院に避難した。寺での避難生活のなかでお七は寺小姓の生田庄之介と恋仲になる。やがて店が建て直され、お七一家は寺を引き払ったが、お七の庄之介への想いは募るばかり。そこでもう一度自宅が燃えれば、また庄之介がいる寺で暮らすことができると考え、庄之介に会いたい一心で自宅に放火した

wikipediaより

お七は恋人にに会いたい一心で自宅に放火し、放火の罪で火炙りになりますが、なんとも短絡的で、純粋で、情熱的とも言えるのではないでしょうか。そのお七と姉は丙午しか共通点がないとはいえ、姉のいつまでも子供のような奔放な面ととても重なります。もし、お七が火炙りの刑にならず、ボヤでお咎めだけで済んでいて生き延びていたら、そこまでして会いたかったという生田庄之介とはとっくにさようならをして、カラフルな人生を送っていたかもしれません。次のひのえうまはもうすぐの2026年(早!)、もうそろそろこんな迷信を信じない若い世代ですよね?

私は将来、夫に先立たれ独り身に戻ったら、このひのえうまの姉と一緒に暮らしたら楽しそうと密かに計画・妄想しています。今、そんな計画を打ち明けたら兄も夫も普通にそんなの普通じゃない、普通じゃない姉と?と反対するだろうけれども、私の小さい頃の姉に対する畏怖の念というのは、実は強烈なファンの一人だったということだろうと何十年後の今、思うのです。

(完 5053文字)

#創作大賞2023
#エッセイ部門


いつもありがとうございます。このnoteまだまだ続けていきますので、どうぞよろしくお願いします。