32歳、いじめと人生を振り返る
はじめに
私は、小学4年生の頃の中学受験塾を皮切りに、高校卒業までの約8年間、いじめの被害に遭った。
暴言を吐かれる、暴力を振るわれる、無視される、持ち物を壊される・汚される、金銭を取られるといった「ベタ」ないじめを一通り経験した。
いじめられた時代から15年経ち、就職と結婚と息子誕生を経て32歳になった今、この辺でいじめ体験を洗いざらい吐き出し、あのころの私を成仏させ、これからの人生を前向きに歩む一助にしたいと思った。
いじめの体験談と、その後の人生のできごとを、約1万字のつたない文章であるが、ここに記す。
いじめられるまで
生い立ち
私は、1990年に某地方都市に生まれた。
一人っ子で、幼稚園入園まで親元で育てられ、親戚づきあいの濃い家でもあった。そのため、日頃から大人に囲まれて育ち、良くも悪くも大人びた性格になった。
一方、同年代と関わるのはやや苦手で、幼稚園や小学校では、どちらかと言えば1人で遊ぶことが多かった。
周囲の人からは、仕草も話し方も「おっとり」と評されていた。
また、2歳の頃からだと思うが、物心ついた頃には鉄オタだった。
最初の黄金期
私の人生最初の黄金期は、小学3年生の頃である。
この頃、ふと興味を持った一輪車の腕前がメキメキ上達した。後ろ向きにこげるようになるなど、腕前は校内でダントツ一番。休憩時間のヒーローになった。
またこの頃、「かいけつゾロリ」や、父親の所蔵していた「おそ松くん」などを丸暗記し、落語のように大げさに音読することが好きだった。
秋のクラス発表会の演劇でナレーターを任され、日ごろ音読する通りに読んだところ、「うますぎる」との評判が学年中に轟き、ビデオを撮られ他のクラスにも紹介された。
気をよくした私は、話すことにもっと磨きをかけ、アナウンサー、ラジオDJ、舞台俳優、落語家、吉本新喜劇の座員など、話で人に楽しんでもらえるプロになりたいという夢を持った。
しかし翌年、他ならぬ話し方をからかわれたことをきっかけに、長年いじめに悩まされることになるとは思わなかった。
塾
塾通い
小学4年生から、中学受験をするために塾に通うことになった。
始まりは順風満帆だった。
夏休み前の三者面談では、「成績は人並み以上だし、特に本読みが抜群にうまい。ゆくゆくはトップ校も狙えます」との評価を得た。
しかし、ほどなく逆風が吹き始めた。
口真似
夏休みが明けたころだろうか。「芝居がかった話し方が面白い」という理由で、休憩時間の雑談から授業中の発言まで、一言一言を真似されるようになった。
「口真似」は、いじめの手口としてはマイナーだと思う。しかし、「話す」という、人と人とのコミュニケーションの根幹をなす行為をからかわれ続けると、心理的なダメージは大きい。
わずか1年前、話のプロに憧れていた私は、話すことへの自信を失った。
ボソボソとしか話せなくなった私を面白がり、さらに口真似をされるという、負のスパイラルに陥った。
テレビで見た「いじめ」というやつ
秋も深まったころだろうか。「イジった時の反応が面白い」という理由で、身体的ないじめが始まった。最初はちょっかいを出される程度だったのが、殴られたり蹴られたりするまで、時間はかからなかった。
当時の私は、「これがテレビで見た『いじめ』というやつなんだ」と思った。
ここは、塾なのに
ある時は、テストの点数で負けたからと殴られる。またある時は、間違えたことをバカにされる。
ここは、塾なのに。勉強できて何が悪い、間違って何が悪いとしか思えなかった。
しょせん塾
このようないじめについて、先生に言わなかったわけではない。
しかしここは学校ではなく、しょせん塾。対応といえば、休憩時間に見張りがつく程度だった。
小学5年生にもなれば、見張りの目をかいくぐっていじめるテクニックはお手のもの。結果として、何の解決にもならなかった。
バックレ
5年生のある時、問題を解けないことをバカにされて「プッツン」となった私は、授業終了後の補習をバックレた。
帰宅後、父親に「みんな頑張って補習に参加しているのに、なんで帰ってくるんだ」と怒られた。
しかし、臆病だった私は、「嫌がらせに耐えかねた」という本当の理由を言えなかった。
たんこぶ
6年生の春だったと思う。頭を殴られて、たんこぶができた。
プクッと膨れた後頭部をさすって、「これが漫画とかで見る『たんこぶ』というやつか」と思った。
塾でのいじめでケガをしたのはこの時だけだった。
しかし、進学先の中学校で、毎日のようにたんこぶやあざを作って帰るようになるとは、まだ想像できなかった。
卒業パーティー
私の中学受験は、第3志望の学校に合格し、幕を閉じた。
6年生の3月、塾通いを締めくくる「卒業パーティー」が開かれた。
私は、戦友との別れを惜しむ同級生を横目に、「ようやくこいつらとおサラバできるんだ!」と、すがすがしい気持ちになっていた。
そのころ、小学校では
塾は散々だったが、小学校は平穏な日々が卒業まで続いた。
結局、小学校は、1クラス30人のほとんどが幼なじみの狭い社会。話し方や仕草が多少独特でも、「元々そういう人だから」で済まされていたのだ。
一方で、5年生の春に転校してきたクラスメイトに「話し方がキモい」、「態度がなよなよしている」などと言われたことがあった。
この件はその場限りで収まったが、今思うと、「幼なじみ」と「外の世界から来た人」の、私への印象のちがいが浮き彫りになるできごとだった。
そして私は、幼なじみのいなくなった「外の世界」の中学校で、人生のどん底を味わうことになる。
中学1年生
外の世界
私は、某地方都市の郊外部にある、私立の中高一貫校に入学した。約40人のクラスが4クラスで1学年160人、全校生徒は中高合わせて約1,000人の共学校だ。
私にとっては初めての電車通学、そして幼なじみのいない「外の世界」。友人ができるかなという不安はあったが、最初はそれなりに順調。仲のよいクラスメイトが何人かできた。
しかし、秋が深まった頃だろうか。徐々に話し方や仕草をからかう人が現われた。
ふたたび、口真似
塾での経験から、引っ込み思案となり、か細い声でしか話せなくなっていた私を面白がり、ふたたび口真似をされるようになった。私が発言するたびに真似をされるので、しゃべりたくなくなるし、自分の声が嫌になる。
数年前、話のプロに憧れていた私は、話すことへの自信を完全に失い、無口になった。登校から下校まで、一度も口を開かない日も多くなった。
社会の汚さ
無口になり、奥手になった私は、次第に仲間外れにされるようになった。入学当初は仲が良かったクラスメイトも、いつしか陰口を叩くなどのいじめに加担するようになった。
仲の良かった人がいじめの加害者になったこの経験は、幼なじみばかりの小学校では味わえなかった「社会の汚さ」を知る経験だった。
人間サンドバッグ
私の噂が、他のクラスにいた「主犯格A」の耳に入ったのは、冬の始まりだっただろうか。
聞く所によると、Aは小学校時代、暴力で同級生を病院送りにしたことがあるという。勉強はそこそこできたために、この学校に「潜り込めた」らしい。
そんなAの遊び道具として目を付けられた私は、人間サンドバッグになった。
力任せで頭を殴打されると、マンガやアニメで表現される通り、頭の中で「星」が散る気がする。
これは「体験者」しか分かり得ないと思うし、本来そんな体験をしてはいけないと思う。
チクリ魔
数回ほど、先生に助けを求めたことがある。
最初はそれで事が収まっていたが、3回ほど助けを求めた頃、逆恨みされ「チクリ魔」呼ばわりされるようになった。
「学年の平和を乱すチクリ魔を成敗する」という大義名分、そして「チクったら●す」という脅し文句のもと、Aだけでなく取り巻き、クラスメイト、さらには他のクラスの者から暴力を振るわれるようになった。
シカト
Aも取り巻きもクラスメイトも、一通りいじめ抜いて飽きてしまったのか、シカトされるようになったのは2月頃だったと思う。
クラスに味方がいなくなり、昼食も1人で食べるのは屈辱だった。しかし、暴力を振るわれるよりシカトされた方がよほどマシだった。
いじめ甲斐のある奴
この学校の1学年は、たかだか4クラス、160人。
1年生の終わる頃には、「いじめ甲斐のある奴がいるらしい」との噂は学年中に知れ渡った。
すでに、他のクラスから「出張」して暴力を振るう者が出ていたいじめの猛火は、クラス替えごときで鎮火しなくなっていたのである。
中学2年生
クラス替え
中学2年生のクラス替えでは、良く言えばやんちゃな、悪く言えば粗暴な「主犯格B」や取り巻きと同じクラスになったことが、運命を決定づける。
新学期が始まってほどなく、私は「いじめ甲斐のある奴」の噂を聞いていたらしいBや取り巻きのターゲットとなった。
休憩時間になれば毎日のように繰り返される、「K-1」と称する殴る蹴るの暴行、「北斗百裂拳」と称するタコ殴り。
頭がたんこぶだらけでデコボコになり、腕があざだらけで真っ青になっていったのは、この頃である。
反撃することをあきらめた
いじめに対して、反撃したことが一度だけある。
Bの取り巻きの1人が、母親の作った弁当を強奪し、箸でかき回してグチャグチャにしたり、「まずぅ~」などと言いながら食べたりすることが、どうしても許せなかった。
私は取り巻きの机に走り、体当たりし、飛び蹴りを喰らわせた。
残念ながら、反撃がよほど面白かったのか、それからのいじめは、どうにか私をキレさせたいと、さらに過激になっていった。
こうして、私は反撃することをあきらめた。
この文章を書いている2023年6月、ちまたでは飲食店での迷惑行為が「外食テロ」として相次いで報道され、私より年上の者までもが検挙されている。
食べ物で遊ぶ者にろくな者はいない。そのような者には必ず天罰が下る。
大人を信じることをあきらめた
夏頃、こうしたいじめを先生や親に認知されたことがある。
きっかけは、ある先生がアザだらけになった腕を見て、暴力を振るわれているのを疑ったことだった。
ほどなく、母親が来校し、担任の先生との三者面談が行われた。
「どうしてこうなるまで言えなかったんでしょうか」と聞く母親に対して、先生は、「プライドがあるから言えなかったんだと思います」と話していた。
しかし、私の思いはこうだった。
「大人に話しても、その場しのぎの対応しかされず、逆恨みされてもっとひどくなった。なら最初から言わない。プライド?あるわけないじゃん」
当時の私は、人間不信に陥っていたと思う。
的外れな見解を示す先生や、家で話しても「反撃すればいい」などとしか言わない親に見切りをつけ、私は大人を信じることをあきらめた。
事情聴取の練習
時を同じくして、先生たちのいじめ捜査の手が自らに及んでいると察知したBから、「事情聴取の練習」をさせられた。
休憩時間になると、Bが教室の自席の向かいに座り、「いじめではなく遊んでいただけだと言え」、「こう聞かれたらこう答えろ」などと指図したうえで、Bが先生役となり事情聴取の練習を行うというものである。
練習でBが納得できない返答をすると、Bや取り巻きから「まじめにやれ」と拳が飛んできた。
いじめを解決することをあきらめた
事情聴取の練習を繰り返され、心身ともボロボロになった私は、いざ先生に事情聴取をされた際、
「今のいじめが続く」と「チクったことを逆恨みされてもっと過酷ないじめをされる」
を天秤にかけ、「今のいじめが続く」を選んだ。
「呼び出して説教するのはやめてほしい。あとは自分で解決する」
先生には「それでいいのか」と確認されたが、それでよかった。
助けを求めても、いじめを解決してくれなかった大人は、信用できないから。
そして、「チクリ魔」と認定された私に、どんないじめが待っているか分からないから。
こうして、私はいじめを解決することをあきらめた。
不登校らしきもの
冬休み前、風邪で休んだことをきっかけに、学校に行くのがだるくなり、1週間休み続けた。
漏れ聞こえた話によると、学年内で「はたもがついに不登校になった」という噂が流れたらしい。
これが、中学高校の6年間で唯一の、不登校らしきものだった。
壊されたプレゼント
冬休みに親戚がプレゼントしてくれたシャープペンシルを、冬休み明けの1週間のうちに壊された。
人が自分のことを思ってプレゼントしてくれたものを、あっけなく壊されるのは、つらい。
中学3年生
ふたたび、クラス替え
中学3年生の時のクラス替えでは、「主犯格C」と同じクラスになる。
これまでCとの面識はなかったが、ほどなく噂話が耳に入ったのであろう、いじめの主犯格に成り上がる。
中学3年生になっても、いじめは終わらなかった。
それどころか、ついに「恐喝」という、立派な犯罪の被害者になる。
Money or die
「人生のどん底はいつか」と問われた際、私は中学3年生の6月を挙げる。
6月の初め、Cとその取り巻きに、「不平等条約」なるものを一方的に締結された。これは、私が1日登校するたびに、「迷惑料」と称する1,000円をCに支払うという条約である。
Cと取り巻きが迷惑料を要求する際の合言葉は、「Money or die」。
迷惑料を支払わないと、2年生の頃に勝るとも劣らない、過酷な暴力が待っていた。
相変わらずたんこぶだらけでデコボコした頭、あざだらけで真っ青になった腕と足。それに加え、鼓膜が破れかけたのか耳鳴りがする耳。
筆箱を壊されたこともあれば、3階の教室の窓からメガネを投げ捨てられたこともある。
それでも、反撃すること、大人を信じること、いじめを解決することを放棄した私は、先生にも親にも言わず、数週間を耐えた。
密告
6月末のある日の放課後、担任の先生に職員室まで呼び出された私は、次のような会話をした。
先生からは、「はたも君へのいじめがひどくて見ていられないから、話を聞いてあげてほしい」と、あるクラスメイトが密告してきたことを聞いた。
その日から、事情聴取と家庭訪問が1週間ほど続いた。
担任の先生の話を聞いて憤る両親に対しては、「こうなるまでマジメに取り合わなかったくせに」と思った。一方で、親に対して思うことを語れば長くなりそうなので、別の機会があれば語りたい。
不幸になるために中学受験をしたんじゃない
夏休み前、学校の応接室で、校長先生と関係者の保護者立ち会いのもと、Cと取り巻きから謝罪を受け、支払った迷惑料も弁済された。
校長先生からは、「本来は退学に相当する事案ですが、諸君の更生を信じて、今回限りは無期停学とします」との話があった。
私は、「不幸になるために中学受験をしたんじゃない。苦労して入った学校で、なんでこんな目に遭わないといけないんだ」と言い放った。
停学処分を受けた者は4、5人、戒告処分を受けた者は十数人いたと思う。
平穏なひととき
それから中学卒業までの半年間は、平穏なひとときが流れた。
学校全体を巻き込んだいじめ事案の被害者として、腫れ物にさわるような扱いを受けたが、いじめられるよりはマシだった。
社会の先生からボランティア部へのお誘いを受け、「何となく、いいかも」と入部した。
また、文化祭のクラスの出し物として演劇をすることとなり、演者に立候補した。全校生徒や保護者が集う体育館で役を演じ、小学3年生の良き時代を少し思い出した。
なお、中学3年生の時に、いじめを先生に密告してくれたクラスメイトが誰だったのかは、今も分からない。
高校生
中高一貫校における「高校」
中高一貫校の最大のデメリットは、「高校デビュー」ができないことだと思う。
中学生の頃に人間関係でつまずいたら、高校卒業まで引きずることを覚悟しなければならない。
6年間人間関係が固定されることは、大半の人にとって「一生の友人を得られる」などのメリットがあるだろう。
しかし、私のようないじめられっ子にとっては、致命的なデメリットである。
いじめのピークは中学時代で過ぎたが、私の高校時代は、このデメリットの直撃を受けた。
思い出せない時期
高校生になると、身体的ないじめはめっきり減り、暴言を吐かれる、仲間外れにされる、無視されるなどの手口が主体となっていた。
机に「しねしねしねしね」などと落書きされる、持ち物を盗まれる・汚されるなど、程度の低い嫌がらせも時折あったが、暴力を振るわれないだけマシだった。
自他ともに認める、スクールカースト最底辺。
相変わらず、登校から下校まで、一度も口を開かない日が多かった。
正直、高校1年生の1年間は、「よく思い出せない」。
派手ないじめは受けなかったと思うが、なにも思い出がない。
ただ、学校にPSPを持ち込んで、「モンハン」に興じているクラスメイトがうらやましかったという記憶がある。
悟ったこと
高校1年生の終わり、高校生活について、以下のような「悟りの境地」に達した。
「残りの高校生活は、第一に、敗戦処理である。第二に、実家を出て東京の大学に進学して人生のリセットボタンを押すための闘いである」
この頃になると、大学受験の準備が本格化し、いじめをする暇はなくなったということだろう。
いじめは、すれ違いざまに「キモっ」と言われたり、避けられたり、時々口真似をされたりする程度に落ち着いていた。
中学生の頃を考えれば、それでも天国だった。
しかし、「いじめられっ子」のレッテルは、学校という狭い社会で、簡単にはがせるものではない。
主犯格A~Cも取り巻きも、全員別のクラスになり関わりはなくなっていたが、相変わらずこの学校にいる。
高校生活は、敗戦処理であり、人生のリセットボタンを押すための闘い。
私は、じっと自分を抑えて、淡々と学校生活を送った。
悲願の友人
高校2年生の春、悲願の友人ができた。高校から編入してきた女子・T氏である。
出会った場所は、中学3年生の時に入部したボランティア部。
T氏も、先生のお誘いを受け高校1年生の終わりに入部したと記憶している。
高校2年生になり、教室で「同じクラスになったんだ!」と声をかけてくれたことが新鮮で、当初はそっけない態度しか取れなかったが、ほどなく雑談できる関係になった。
高校から編入したため、中学時代の私を知らないことが幸いしたのだろう。
部活終わりにたこ焼き屋に行き、時に21時過ぎまで語りあったことは、暗黒の中学高校時代の輝く思い出の1つである。
T氏から後年聞いた所によると、私と仲良くなったことで、変な目で見られたり、嫌がらせを受けたりしたことは一度や二度ではなかったという。
しかしそのたびに、「はたも君って、本当は鉄道も野球も映画のこともたくさん知ってる面白い人なんだよ!」と言ってくれていたそうだ。
シェルター
教室で1人で昼食を食べることに耐えかねた私は、中学3年生の頃から高校卒業まで、部室で食事をしていた。
ボランティア部の部室は、テレビとDVDプレーヤー完備という、ぼっちにはこの上ない環境。
テレビで「いいとも」や「ごきげんよう」、あるいは映画やドラマのDVDを見ながら、弁当を食べて昼寝する。
部室は、私が私でいられるシェルターだった。
しかし、その部室が改修工事で使えなくなったこともある。その際は、昼食を我慢するか「便所飯」かという、究極の選択をせざるを得なかった。
告白すると、「便所飯」をしたことは数回ある。
大学合格
「何が何でも東京の大学に進学し、人生のリセットボタンを押す」
受験勉強のモチベーションは、この一言で表された。
「とにかく東京に出たい」という一心で、都内の大学を7校受験したが、結果的には第1志望校だけに合格した。
もはやこれはご縁というか、天命。
私は、人生をリセットできる街・東京への切符を手にした。
卒業式
卒業式の日は、私が2年間待ち望んだ「人生のリセットボタンを押す日」に他ならなかった。
心境をひとことで表すと、「この支配からの卒業」。
卒業式後のホームルームで、「夢だった東京に行って、私は生まれ変わります!」と、高らかに宣言したことを覚えている。
「人生で思い出に残る日」として、パッと思いつく日が3つある。
妻に告白された2018年9月16日、息子が生まれた2023年1月11日、そして、高校の卒業式があった2009年3月2日である。
大学デビュー
人生のリセットボタンを押した私は、大学デビューに挑戦した。
東京に私の過去を知る人はいない。「知らない街で出会いたい、ほんとの自分と」。
私は、大学デビューの三大目標を立てた。
容姿をせめて人並みに
話し方をせめて人並みに
新しい趣味を見つける
容姿をせめて人並みに
「別に派手な容姿になる必要はない。まず人並みの容姿になれれば、おのずと自信を持てるのではないか」
そう思った私は、具体的な施策として、コンタクトデビュー、美容室デビュー、服装の改善、歯の矯正の4つを掲げた。
この時通い始めた美容室は、十数年経った現在も、長いお付き合いになっている。
服装は、当時流行していた「脱オタ」のサイトなどを参考に、チェック柄のシャツを一掃するなど、最低限のおしゃれを目指した。
また、歯の矯正は親知らずなど8本の歯を抜く、数年がかりのプロジェクトになったが、やってよかったと思う。資金援助をしてくれた両親に感謝。
話し方をせめて人並みに
話のプロになりたいという小学3年生の頃の夢も粉砕されるほど、話し方を散々バカにされた私は、「せめてバカにされない話し方を」と、話し方の改善に取り組むことにした。
具体的な施策として、録音したりお手本を聴いたりしつつ、1日1回以上、「五十音(北原白秋)」と「外郎売」を音読することにした。
別にアナウンサーや俳優声優を目指すわけでもないのに、馬鹿正直だとも思った。
しかし、「やらないよりはマシだよね」と数週間続けると、腹から声が出るようになった気がして、発音も明瞭になった気がした。
これが面白くなり、「口の筋トレ」として朝の習慣になった。
新しい趣味を見つける
2歳の頃から鉄オタであることは結構だが、鉄道一辺倒もいかがなものかという危機感を覚えた私は、新たな趣味を見つけたいと思った。
ただ、「見つける」といっても無理に探そうとはしなかった。
小学3年生の頃、校内で無双した一輪車だって、最初はふと興味を持ってやってみただけだった。
せっかくの東京で過ごす4年間の大学生活。
「楽しそう!やってみたい!」とふと思った心を大切に、新しい趣味を見つけて、自分の世界を広げたいと思った。
今思えば、これらの目標や施策は、世間でいう「大学デビュー」からかけ離れている。
しかし、せめて人並みを目指し、優先的に解決すべき「課題」を見極め、無理なくできる施策により解決を図るという、「堅実な大学デビュー」を行えたことは、後の人生によい影響を与えたと思う。
その後の人生
大学生活
大学デビューの効果がどこまであったかは結局分からないが、大学では着実に友人ができていった。
友人付き合いでは、若干「浮いている人」に見られた覚えもあり、中学高校で人間関係に恵まれなかったことの損失を感じることもあった。
しかし、授業、ゼミ、サークル、アルバイト、そしてサークルやゼミの合宿に、夏休みの北海道一周や友人との卒業旅行と、人並みの大学生活を送れたと思う。
大学時代は、おかげさまで人生2度目の黄金期となった。
心からせいせいした高校の卒業式から約4年、大学の卒業式を迎えるのは、嫌で嫌で仕方がなかった。
新しい趣味
大学時代に、ふとしたことから「楽しそう!やってみたい!」と思ったのは、弓道とスクーバダイビングだった。
弓道は、「袴がかっこいい、ピシッとした立ち振る舞いを身につけたい」という動機で始めてみたら、思いのほかドハマり。
弐段に昇段した後は、結婚と息子誕生もあり、現在は月1回程度、腕を錆びさせないために稽古しているのみである。
しかし、いつか四段を取り、弓を引く者なら憧れる大会の一つ「京都大会」に参加したい。
一方、スクーバダイビングは、レギュレーターの口呼吸や水中の閉塞感に思いのほか慣れず、結果的に失敗だった。
しかし、「やりたい!」と思ったことをやってみて、結果的に「やっぱ向いてなかったな」と思えたのも、よい人生経験だった。
就職
就職活動自体にいい思い出はないが、いじめられていた時代よりはマシだったに尽きる。
「鉄道が好き」、「街が好き」、「考えることが好き」を出発点に業界研究をした結果、建設業界の中でも計画系の企業にご縁をいただいた。
上司や重役といった「おじさん・おばさん」とのお付き合いは、大人に囲まれて育った幼少期の経験をもってすればお手のもの。
社会に出てから、年齢を重ねるごとに生きやすさが増していると思う。
結婚
2018年、職場で妻に出会い、3年の交際を経て2021年に結婚した。
職場の飲み会で、私が鉄オタであることを話すと、妻も「貨物列車が好き」と意気投合。妻から猛アタックを受け、交際に発展した。
交際して1年経った頃、昔いじめられていた話をした。
当時は淡々と聞いてくれたが、後年聞いた所によると、「いじめの話をされた時、この人を一生かけて守ってあげたいと感じた」という。
手前味噌であるが、私の妻になるべくして出会ったような、「運命」を感じる人がこの世の中にいることが、信じられなかった。
息子
2023年1月11日、息子が生まれた。
今も、私の息子が世の中にいて、日夜「ふえーん」と泣き、寝返りをして、ミルクを飲むことが信じられず、夢を見ているような心境である。
子育ては忙しくも毎日発見がある。ここ最近はまさに、人生3度目の黄金期かもしれない。
そんな息子も、いつかは中学生や高校生になるし、中学受験をするかもしれないし、不幸にもいじめられることがあるかもしれない。
息子が不幸な目に遭った時、父はいかにして「しくじり先生」になれるだろうかと考えることがある。
おわりに
いじめられているあなたへ
まず、こんな長々しい自分語りを読んでいただき、ありがとうございます。
(※読み飛ばしてここに来たなら、それでもいいよ!)
読んでくださった方の中には、学校でつらい思いをしている方もいらっしゃるかもしれないので、1つだけアドバイス。
「逃げるは恥だが役に立つ」
残念なことに、地球上に人間が生きている限り、いじめは撲滅できないと思っている。
ただ、不幸にもいじめの被害者になった時に、逃げることはできると思う。
世間において、「逃げる」は恥と受け取られることが多い。かつての私も、逃げる勇気がなかった。
しかし、いじめにおいて、逃げることは一瞬の恥かもしれないが、必ず役に立つ。
逃げよう。今いる場所がすべてじゃない。
そして、あなたがあなたでいられる場所で、デビューしよう。
親友
2022年の春。結婚式の日取りが決まり、準備の一環として実家に帰る新幹線の中。
数年ほど疎遠になっていた高校の友人T氏に、招待状を送ってよいか、LINEで連絡を取った。
すると、ほんの数十秒で返事が返ってきた。
「行くに決まってるでしょうが!!!おめでとう!!!!!」
時間も距離も軽々と超えられる、それが親友。そんな関係の人が1人いるだけでも、10代を生き抜いた意味はあったなと思った。
そしてこの時、8年にも及ぶいじめで背負った「負債」を、上京13年目にして完済できたような気がした。
故・野村克也氏の遺した言葉の1つを紹介し、本稿を締めくくりたい。