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飛騨高山カーボンサイクル誕生秘話

カーボンサイクル物語(2)

「なんじゃこれは?」

背筋が凍り付いた。北海道・下川町・旧一の橋小学校を訪れた時である。

「時が止まっている・・・」私は、乾燥させたトドマツ材を担いで、極寒の中小学校を訪れた。壁には小学生の絵が飾られたままであった。もちろん生徒は誰一人いない。廃校になったのである。ある日突然。この絵を描いた子供たちはどこへ行ったのだろうか?絵も片づけられることもなく。

下川町はかつて炭鉱の町として栄えた。その後昭和になって木材の町に。鉄道も走っていた。どうしてこんなことになってしまったのだろうか?

円とドルは固定相場制から変動相場制に。じわじわと安い木材が海外から輸入され、国内の木材は競争力を失っていく。

何かがおかしい?国産材に価値はないのか?そんな疑問を抱いて、自分にもできることを求めて飛騨高山に来た。東京の会社を退職して。

私は、大手製紙会社の研究所でユーカリの海外植林の研究を長年行ってきた。それには、炭素循環(カーボンサイクル)への強い思いがある。すなわち、地球上を炭素は循環している。石炭(黒い石)も石灰岩(白い石)も、もともとは太古の地球を取り巻いていた二酸化炭素が、太陽エネルギーで植物や藻類によって固定・貯留されているに過ぎない。それらが一旦大気中へ解き放たれ、再び光合成で食物や森林・木材に変換されて地球上を循環するのである。あなたが今晩食べたお米のでんぷんの炭素も、ひょっとしたら、ついこの前まで地中深くにある石炭や海底の石灰岩だったのかもしれない。

森林の再生や地域木材の利用を潤滑に行うことが、地域の森林産業を活性化して、雇用を復興させるに違いない。二酸化炭素をまき散らして経済活動を行うのではなく、ローカルでオンサイトで炭素を循環させよう。そうすれば、子供たちは生まれ育った故郷を離れることなく失うことなく過ごせるはずである。その目的のために、「飛騨高山カーボンサイクル」で活動を始める決心をしたのである。

研究40年、カーボンサイクルの構想20年。残りの人生を自分の志すことに捧げたい。

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