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想像力と共感と表現について

平和に必要なのは想像力と共感だと、思いついたのはちょうど20歳くらいのことだったか。

たとえ見えない距離にいたとしても、誰かの痛みを想像し、共感することさえできれば、簡単に他人を踏み躙ったりはできないだろうから。

…と言いながらも、私はいつも突然キャパの大洪水が起こって、挙げ句の果てに気の許せる誰かに当たってしまう(土下座したい人が何人かいる)。


でも、心の底からそう思うのである。想像力と共感力を持ち合わせたヒトでありたいと、ずっと願っていた。

『海辺のカフカ』を読んでからは、少し考えのベクトルが変わった。根本的に変わったのではなく、起点は変わらずに角度が変わったような感じ。以下は主人公が高知の図書館で出会う司書の大島さんの言葉である。

全ては想像力の問題。僕らの責任は想像力の中から始まる。イェーツが書いている。In dreams begin the responsibilitiesー逆に言えば、想像力のないところに責任は生じないのかもしれない。このアイヒマンの例に見られるように。

村上春樹『海辺のカフカ』

アイヒマンとは、ナチスの幹部でホロコーストの責任者の一人。 この男、かなり頭の切れる人間で、いかに「ユダヤ人を効率的に殺害するか」を突き詰めた、誤解を恐れずに言うと、ナチスの価値観において超『シゴデキ』な迫害の実行責任者であった。

アイヒマンには戦争犯罪により有罪判決が下されたが、彼自身は一貫して無罪を主張した。

彼にとっては、仕事をいかに円滑に進めるかが重要な問題であった。彼が仕事をする際、ユダヤ人は単なるターゲットであり、その犠牲者一人一人の家族や人生、夢に思いを馳せることがなかったと、小説には記されている。

想像力あってこその責任。想像しない人に、想像すること、そして責任を持つことを強要するのは難しい。

そんな中で、たとえ自分一人でも、それぞれが何かしらを抱えて生きていると、形は違えど皆にとって生きづらい世の中であると、理解しようと思えることがどれだけ尊いことか。

目の前の相手の、目に見えない歴史に思いを馳せること。
その痛みに寄り添うこと。
他者のままならなさに思いを馳せること。
そして相手の強さ、しなやかさに敬意を持つこと。

ただ、相手の想像力や共感に依存しすぎる危険性も、今更ながらわかってきた。感受性には個人差があり、そもそもみんな自分のことで手一杯だから(ここでも土下座したい人が何人かいる)。

私たちは自分を幸せにするためにも、自分自身の手で自分を表現していかないといけないのかもしれない。


山田ズーニーの『理解という名の愛が欲しい』は、私にはあまりに耳が痛すぎて、この比喩が本当ならば筆舌に尽くし難い苦痛の果てに耳を焼き切ってしまいそうなくらいだった。

黙ってそばにいて、わかりあえる。にしては、私たちは、忙しすぎる。短い時間に凝縮して伝えあえるのは言葉だ。 黙って、わかりあえる。にしては、私たちの距離は遠く、寒い。離れていても近く届き、何度も反芻できるのは言葉だ。口では言わないけど、わかってくれている。 そう信じるには、私たちの内面はちょっと複雑だ。

山田ズーニー『理解という名の愛が欲しい』


誰かの幸せを願いながら、自分自身をも押し出していくこと。それは矛盾しない。

想像力と共感と表現すること。
生きていくのに、他者と折り合いをつけながら生きていくのには、今のところそれが必要だと、個人的には決着をつけた。


私はことあるごとに、頭の中の取締役会で審議をする。
取締役会は以下のメンバーで構成される。

村上春樹、『海辺のカフカ』の大島さん、
山田ズーニー、『ストーナー』のストーナー、
『キャッチャーインザライ』のホールデン、
夏目漱石、名前のまだないあの猫、
ハーマイオニーグレンジャー。

皆とてもウィットに富んでいて、様々な角度から助言をしてくれている(ということにしている)。
まだまだこれからも増えるかも。


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