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月記(2022.03)

3月のはなし。


そろそろ3月も「師走」と名乗っていいんじゃないだろうか?社会は12月よりも必死に走っているようにみえる。走る技術も大事だが、休む技術も同じくらい大事かもしれないし、どちらも学校ではあんまり教えてくれない。

3月(および隣接する前後の日)は好きな人たちの誕生日が多数重なっている。うっかりしたり、わかってるのにできなかったり。それでも色んな人のことが頭に浮かぶというのは、ある意味では幸せ者ということなのかもしれない。

そんなわけで、今月はすこし趣向を変えて、この3月(および隣接する前後の日)に誕生日を迎えた方々について書き記すことにする。




…ということを決めたのが3月下旬、いまは4月中旬。「師走」と書いていたが、書けば書くほど、僕は「師」たりえず、綺麗なフォームで「走」れてもいないと痛感した。あちらこちらに弾き飛ばされ転げまわっている。カービィがピンボールにされたときの気持ちがわかった気がする。怪文書の世界は奥が深く、抜け出すのも容易ではない。ここに、7篇の怪文書が生まれてしまった。もはや月記の体裁を成していないため、3月分はここでおしまいということにする。3月、大変だったけど、なんかおもろかった。

終わりにひとつ。みなさま、お誕生日おめでとうございました。そして、ありがとうございました。




●今月あたらしく知った音楽


●今月なつかしんだ音楽

























以下、7篇の怪文書を収録しております。閲覧、非閲覧、ご自由にどうぞ。



【2/29】AMEBA(クロスノエシス)

閏年というものをはじめて知ったのはいつだったか。とりあえずそういうものがある、と認識することは「知った」に含まれるのだろうか。今なら暦や時間がどのようにしてできあがっただとか、知識を引っ張り出して、あれこれ想像を巡らすことができる。そんな閏日に生まれたAMEBAさんは、もっと小さなころから想像を巡らせていたのかもしれない。

AMEBAさんはクロスノエシスのメンバーであり、楽曲の作詞、グッズデザイン、ライブ演出など、グループ全体としての表現にも積極的に関わっている。グループには「リーダー」という役割が定められることがあるが、オフステージでは緩やかな空気をまとい、ときに斜め上なことを喋ってはメンバーにツッコまれる様子などを見ていると、窮屈な「リーダー」像を必要としない、もっと自然な信頼感みたいなものが漂っているように思う。彼女の周りにいるメンバーやスタッフの様子からも、それが伝わってくるようだ。

クリエイティビティというか、制作面に関わっていくということは、ちょっと特別に見える(実際すごいのだが)。かといって、優れた制作者が優れたリーダーになるかといえば、それはまた別の話だ。グループではリーダーだけでなく「〇〇担当」というようなことを公称するパターンもあり、それはそれで魅力や意義があるだろう。一方で、もっと緩やかなバランス感というのも、それはそれで魅力や意義がある。おそらく、クロスノエシスは後者寄りのやり方で進んできたのだろうと思う。

そんな中で、クロスノエシスのいち世界観ファン(?)としては、制作面での活躍をみせるAMEBAさんには、より具体的な尊敬の念を抱いてしまう。特に作詞に関しては、僕自身過去に何度も挫折しており、その難しさと奥深さはある程度想像できるつもりだ。過去にも触れたが、2つの別々のものとして発表された曲が、後に1つの曲に統合されるというギミックがあった。イントロやメロなどの構成が共通していて、メロディもつかず離れず似た展開をみせたりと、作編曲のレイヤーで様々な仕掛けが施されている。そんな一連の曲の作詞を手掛けたのがAMEBAさんだと知ったとき、尊敬どころか畏敬の念を抱いてしまった。その曲のなかでメロディに合わせた言葉を選ぶだけでなく、関連する曲との構造的な組み合わせも踏まえなければならない。自ら作曲したわけではないのだから、そのぶん作曲者であるsayshine氏との意思疎通も大事になる。想像するだけで気が遠くなりそうだ。クロスノエシスというグループ名には「思考が交差する」的な意味があるらしいが、彼女の脳内ではまさしくそういうことが起こっているのかもしれない…。

加えてAMEBAさんの誕生日記念ライブでは、初のソロ曲「カタルシス」が披露された。もちろん作詞は自身で手掛けている。グループ活動を続けていくなかで培ったものをもって、ついにクロスノエシスという舞台だけでなく、そのなかで歌い踊るAMEBAという存在についてまで、より精細で緻密なものを創ってしまった。僕が見上げる首の角度が、また一段上向いた。

今日も多くのアイドルグループが活動をしている。グループとしての在り方、メンバーとしての在り方、アイドルとしての在り方…様々なレイヤーに、それぞれの考え方がある。それがどのように表現されるのか、はたまた表現され得ないのか。いちファンは、それをステージや画面の向こう側から、必死に読み取ろうとしたり、ともすれば注釈を加え(てしまっ)たりもする。ソロでのステージを終えたAMEBAさんは、ひとつ緊張から解放されたのもあってか、楽しそうに喋ってステージをあとにした。その後、メンバーと共にクロスノエシスのひとりとしてステージに戻ってきた彼女は、いつものように静謐で神秘的で、加えて笑顔で、いつにも増してライブを楽しんでいるように見えた。観客の満足感だけでなく、ステージ上の誰かの満足感も、そこに漂っていたように思えた。

漂っていたものは、あながち幻でもなかったのかもしれない。
























【3/2】LAKE(クロスノエシス)

LAKEさんはクロスノエシスの末っ子であり、アイドルデビューをクロスノエシスのメンバーとして迎えた人だ。僕にとっては数少ない、偶然にもデビューの舞台を目撃したアイドルのひとりである。歩んでいく彼女の背中を見るたび、教わることは増えていく。

LAKEさんは尊敬するアイドルとして、ヤなことそっとミュートのなでしこさんを挙げている。なでしこさんといえば、一度聞いたら忘れられないあのパワフルな歌声が思い浮かぶ。曲の激しさ、ダンスの激しさ、その荒波を突き抜けて届いてくる歌。もちろん僕も圧倒された。はじめてヤナミューを見たとき、背後のバンドセットの熱さと、ステージ最前線で歌い踊るメンバーの熱さが混ざり合い、文字通りの熱狂がそこにあると感じた。そこに「僕が好きな音楽」のひとつの理想形を見たことは、今でも忘れられない。ここで話をLAKEさんに戻すと、その細かな内実は異なれど、ヤナミューという同じグループに何かを見たというところに、僕は勝手ながらシンパシーを抱いている。そして彼女がデビューしたグループが、僕の敬愛するMaison book girlが生まれたekomsで立ち上がったということにも、勝手ながら何かしらの巡り合わせを感じているのだ。

「成長を見守る」のがアイドルなるものの楽しみ方だ、という言説がある。2010年前後あたりだろうか、求めずとも耳には入ってきた。しばらくの時が過ぎて2018年、はじめてアイドルなるものに興味をもち、改めて「成長を見守る」ということを考えたりもした。ただ僕は長らくその実感を得た手ごたえがなく、「そういうものらしい」という認識にとどまり、そこにどこか気後れを感じながら過ごしていた。2022年になって、ライブでLAKEさんを見ていたときにふと、「こういうことだったのかもしれないな」とおぼろげな実感が湧いてきた。歌のバリエーション、ダンスの緩急、目線や表情、佇まいひとつで物語るステージ。僕は歌がわかるわけでもないし、ダンスがわかるわけでもないし、演劇がわかるわけでもない。そんな素人目にも、ステージ上の彼女の存在感が増していることはわかった。存在感が増すほど、目が向く時間も増す。そして見れば見るほど、表現に隙のようなものが見えないことがわかってくる。「成長を見守る」ということは、昔の僕が想像していたより遥かに熱く燃える炎のような感覚だった。偉大なる人類の祖先たちは、炎を恐れつつも、そこに神聖なものを見出してきた。僕はようやく祖先たちの後ろ姿を捉えたのかもしれない。

LAKEさんの誕生日記念ライブには、これまでも足を運んできた。クロスノエシスの曲には、生命の誕生などを感じさせる要素が含まれている。ある意味、誕生日というイベントに似合うともいえる。なら、生命という単語を「アイドル」に置き換えてみたらどうだろうか。繰り返しになるが、彼女は僕にとって数少ない、デビューの舞台を目撃したアイドルのひとりだ。僕にとって3月2日は、クロスノエシスの曲がひときわ強く輝く日なのだ。

今年のライブも、まぶしかった。それはある意味では予想通りだった。それでも、「インカーネイション」のイントロが鳴り、音とシンクロする照明におぼろげに浮かぶ姿を見たとき、こみ上げてくるものがあった。僕はフロアでの立ち位置はあまり気にしないのだが、この日は運よく、真正面から彼女の姿を捉える場所に立っていた。音と共に明滅する照明は、背後から彼女の輪郭だけを浮かび上がらせては、闇に沈めていく。逆光で表情すら読み取れない、真っ黒な彼女の姿が、なぜだか一番に輝いて見えた。






















【3/8】月日(RAY)

彼女がなぜ月日と名乗ることにしたのか、未だ明確に掴めてはいない。でも、僕は出会った頃からそのまま「月日さん」と呼び続けている。

ミスiD2020ファイナリストとなり、「卒業式」という名の受賞者発表会に参加する前夜、月日さんはひとつの文章を投稿した。何の気なしにそれを読んだ僕は、それまで僕のなかにあった、「アイドル」だとか、「人間」だとか、「人生」だとか、色んなものが揺れ動くのを感じた。夜が明け、僕は「卒業式」の場に向かった。彼女はその年のキャッチコピーを冠した「人の人生を笑うな。賞」を受賞した。月日さんがまとうと、コピーの意味が変わっていくようで、とても似合っていると思った。

月日さんの活動を見ていくなかで、これまで想像もしていなかった色んな扉を開けてきた。いま本棚にデンマークの画家の図録があることや、身体にイルカにつかまって海を泳いだ感覚があることや、洗濯をするたびになんとなく思い出す顔があるだとか、たまに部屋に花を飾ってみたりだとか、彼女からきっかけをもらって変わったことは、大小さまざまな形で僕の生活のなかに散りばめられている。アイドルなるものの素敵さのひとつは、こういった日常生活の景色を変え得ることにあると考えてはいたが、彼女を知ったことでその考えはより確信に近づいた。

共通の話題というのは、なにかと便利だ。好きな音楽、好きなドラマ、好きなファッション、だいたいそういうところから友達だとか、色々な関係を築いていく。実際はそうシンプルに世の中が廻っているわけではないのだが、僕は幸か不幸か、単純な認識でそれなりの年月を生きることができ、ちゃんと破綻した。ただ、もしも共通点を探っていくやり方だけに閉じていたとしたら、僕は月日さんを知ることはなかったかもしれない。けっこう奇跡的な出会いだと思っている。僕が彼女に惹かれるようになったきっかけはミスiD2020なのだが、これをなにかしらの「共通の話題」として無理くり表すとしたら、たぶん「人生」という単語に収めるしかない。ある意味、これ以上ない「共通の話題」ではある。しかしこの話題カードが登場するのはだいたいゲーム後半、まず1ターン目ではないはずだ。ただ、こうしたセオリーを無視した1ターンキルのような出会いというのは、ある意味アイドルらしいものともいえるのかもしれない。

「同じ」を見つける、「違う」を見つける、どちらにも面白さはあるし、どちらもつながっている。昔は表面的な「違う」を理由にして、色々なものを遠ざけてきた。それはそれで当時の僕なりの生存戦略だったのかもしれないし、もしかすると世の中で分断だとか言われる、ある種の流行りなのかもしれない。はたまた、進歩していくということは「違う」になっていくということなのだろうか。それでもいくつも寄り道をした先で、結局いつの間にか「同じ」場所に帰ってきたりするかもしれない。そのときの自分は「同じ」ことばかりでもないだろうし、「違う」ことばかりでもなさそうだ。3歩進んで4歩下がったとしても視界は変わるだろうし、振り返ればもっと遠くのほうになにかが見つかるかもしれない。

なに長々とどっちつかずのことを言っているんだ、という話だが、長らくそういうことを自覚できなかったから、長々と今、やっているのだ。こうしてnoteを更新するようになったのも、色んな誰かの真似事だ。1年以上続いたが、未だによくわからない疲れ方をするし、自分ルールを自分が破っても、自分が咎めないかぎり休めてしまう。そのうえで、成果物にNOを突き付けるのも自分だったりする。そんな自問自答を今もこうして続けている。

ひと休みしてコーヒーを飲むとき、「どうしてるかな」と思ったりする。そういえばコーヒーは昔からずっと飲んでいるが、もっぱらペーパードリップで淹れる。ネルを扱うのはどうにも難しそうだ。そういうめんどくさがりなところは変わってないらしい。そのくせ、またムキになってキーボードを叩いている。言葉を扱うことだって難しいというのに。でもおそらく、ムキになってしまうからこそ、そこには僕にとって大事なものがあるのだと思っている。扉まで導いてくれた人には、感謝してもしきれない。























【3/9】夢際りん(yumegiwa last girl)

夢際りんさんはyumegiwa last girlの初期メンバーであり、グループの名付け親であり、アイドルであり、看護師であり、エンジニアである。Webサイトも作るし、写真も撮るし、エフェクターも作る。こうした情報はまだまだ追加されていくかもしれない。

りんさんは今年の誕生日にあわせ、ソロ活動名義・UTEROでのCDリリース発表と音源配信を開始した。Cwondo(No Buses)、Parannoulの両名からの提供曲を含む5曲、スタートダッシュにしては強烈だ。提供のインパクトは強いが、聴いてみれば全編通してまとまりがあり、すべての曲がすうっと自然に沁み込んでくる。それがUTEROこと夢際りんが培ってきたものの、なによりの証明だろう。

誕生日記念ライブでは、UTEROとしてのソロパフォーマンスが披露された。彼女は学生のころから札幌のライブハウスに通い、多くの音楽に触れて育ってきた。その後も国内外問わず様々なライブやフェスに足を運び、その耳でたくさんの音を感じてきたらしく、きっとそういった経験が活かされたのだろうか、UTEROの音楽はライブハウスを上から下まで心地よく満たしていた。僕は海外のフェスに行ったことはないが、この日の恵比寿には、彼女が見聞きしてきた音楽の景色が表れていたように思う。

yumegiwa last girlは活動当初から流行り病の波と闘いながら、それでも着実に鍛錬を積み、今日まで歩んできた。僕が初めてライブを見たのは、まだ3人体制だったころ、午前スタートの高円寺某所だった。客入りは決して多くはなかった。それでも3人のステージは、数か月前までアイドル未経験だったにしては、あまりにもかっこよすぎるように見えた。きっと粗探しをしようとすれば、色々と見つけられたのだろう。ただ、そんな無粋な気を起こす暇など与えない、どこか異常なほどの気迫がステージからは放たれていた。その後すこしして、グループは新メンバー3人を迎えて6人体制となった。お披露目ライブも延期になるなど、相変わらず世間は揺れていた。しかしゲリラ的に配信で行われたお披露目ライブの映像には、やはり不思議な気迫があった。実際にライブハウスで6人のステージを見たときには、その気迫はより確固たるものとして出来上がりつつあった。昨年末、満を持して吉祥寺で行われた1周年ワンマンライブは、凄まじいものだった。その熱は、ステージはもちろんフロアも巻き込み、燃え上がっていった。頻繁にライブに足を運べていない僕でさえ、その場にいるだけで自然に拳があがり、音楽に促されるまま、自然に高くまで跳べたのだ。無論、誕生日記念ライブでのyumegiwa last girlのステージも、引けをとらない熱を帯び続けていた。

先月のnoteでもすこし触れたのだが、夢際りんさんの歩みは、ライブハウスという環境と、そこに渦巻くバンドシーンを出発点としている。そしてそれが現在のライブハウスに渦巻くライブアイドルシーンへ、いわば逆輸入のような形で進んでいるように見える。このことは所属事務所である最南端トラックスの姿と共鳴するところがあるようにも思う。もちろん、バンドシーンで活躍した人たちがライブアイドルシーンに参加する流れは以前からあった。僕がシーンに踏み込むきっかけをくれた照井順政さんは、まさにそうした人だ。だがsora tob sakanaが活動を終え、いくらかの時が流れた今のシーンを見ていて、ひとつの波が去っていくような感覚が無いとは言えない。ならば、次なる波はどのように生まれるのだろう。もしかしたら、北の国で育った少女が、この国の最南端から、仲間たちと共に立てる波音が聴こえてくるのではないかと、勝手ながらわくわくしている。


























【3/14】和田輪(ex.Maison book girl)

ライフワークとして歌うことを続ける。何目線かわからない言い方だが、とても理想的な在り方だと思っている。肩書きだとか、名乗りだとか、そういうものを考えて人前に立ち続けてきたはずだから。丁寧に言葉を紡ぐ姿を何度も見たのでなおさら、いまの和田輪さんの在り方が素敵に見える。

和田輪さんは元Maison book girlのメンバーであり、歌手であり、眼鏡をかけている。ブクガとして活動していた間も、眼鏡パーツメーカーとコラボ商品をつくったり、独学で3Dモデルを生み出し「いのち」を吹き込んだりと、様々なことに取り組んできた。なによりトレードマークである眼鏡へのこだわりは強く、衣装が変わるたびに合わせて眼鏡を新調していた。ライブの途中で衣装を着替えるときには、もちろん眼鏡も交換する。細かいところまで、彼女はステージに立つ「和田輪」に対して妥協しない。だからこそ自信をもって「和田輪」をステージに送り出してきた。そんな姿に憧れるのは当然だろう。

アイドルなるものの素敵さのひとつは、日常生活の景色を変え得ることにあると思っている。そしてこうした変化を生み出す力は、アイドル自身がもつ「好き」の力によって自然にドライブするとき、より強力になり得る。

僕は小学生のころから眼鏡をかけていた。コンタクトレンズはとにかく怖かった。でも眼鏡がダサくて嫌だと思うほど洒落てもいなかった。眼鏡は生活に必要な道具であり、当たり前に僕の顔に鎮座しているものだった。その常識がある日、完全に崩れた。

和田輪さんがアルバム「yume」の衣装に合わせて選んだ、factory900のfa-2026。こんなにもかっこいい眼鏡がこの世にあるのか。衝撃を受けた。僕の顔に鎮座していた眼鏡が、可能性の塊に思えた。ほどなくして、僕の顔にブルーのfa-2026が鎮座した。現在、僕の家には「よそ行き」担当の眼鏡が4本スタンバイしている。出かける準備をするとき、今日はどの眼鏡にしようかと考える。当たり前の生活のなかに加わったこのワンステップは、彼女の眼鏡に対する「好き」の力から受け取ったものであり、まさしく僕の視界を変え、景色を変えてくれたのだ。

和田輪さんの「好き」に対する情熱は、外から見える以上に熱いものなのだろうな、と思っている。黙々と自らの手で試行錯誤しながら情熱を形にしていくようで、そこに彼女なりの信念めいたものを感じる。それは、文字通りのソロ活動のはじめ方にも垣間見える。初めてのライブに足を運んだ際、彼女はグッズと金庫をならべ、ひとりで物販スペースに座っていた。まるでコミケにサークル参加しているかのような雰囲気で、ある意味では似あっていた。その後、別の配信イベントのトークコーナーに出演した際に、そのワンオペスタイルについて質問されたのだが、その答えがあまりにも「らしい」もので、つい笑ってしまった。

「まず一回ぜんぶ自分でやってみて、なにができて、なにができないか知りたかったんです。それで他人に頼んだほうがいいことがわかっても、じゃあどう頼めばいいのか、そのためにどんな知識が必要なのか。そういうことを確かめてみたかったんです。」(意訳)

2022年1月22日「吉田豪&南波一海の“このアイドルが見たい”2022肇春」にて

この回答は見事に眼鏡をかけている。「好き」なことをやれるようにするため、どこにこだわり、こだわりすぎないのか。今日も黙々と解を探しているのだろうな、と想像している。きっと良い解に辿り着くだろう。身近に理解してくれる人もいるし、なにせ共に眼鏡をかけているのだから。再び彼女が送り出す「和田輪」が見せてくれる景色は、どのようなものだろうか。その日、僕はどの眼鏡をかけて行こうか。いや、ひょっとしたらヘッドマウントディスプレイが必要になるかもしれない。手に入れておいてよかった…。






















【3/30】甲斐莉乃(RAY)

甲斐莉乃さんは、自らを表現して世に放ち続けてきた。RAYのメンバーとして活動すると同時に、イラストや絵画を描いて個展を開催し、イチからDTMと楽曲制作を学んでオリジナル曲を制作するなど、様々な技法を吸収しては、自らの武器を増やしてきた。その勤勉さと多才さだけでも目を見張るものだが、なにより驚くのは、それらの表現すべてに一貫した世界観が感じられることだ。少なくとも、これまでの誕生日記念ライブについては、ひとつのコンセプトの流れに基づいていると、彼女自身がステージで話していた。

自ら使っておいてアレだが、多才だとかそういった「できる」ということに関する言葉は、甲斐莉乃さんの凄みを表すにはすこし足りないように思う。おそらく、「できる」ということ以上に、「やりたい」というエネルギーが溢れていることに凄みを感じるのだ。たとえば、僕は若干DTMや音楽制作の知識がある。バンドで曲を制作するためのデモレベルであれば、一応は「できる」。ただこれは必要なことを身につけただけであり、そこから表現だとかを「やりたい」というエネルギーが生まれてきたわけではなかった。もちろん「できる」ということ自体に意味はあるが、それは「やりたい」とはまた別物なのだと思っている。彼女が作曲を「やりたい」と宣言したとき、迷わず応援したいと思った。そして彼女がイチから作り上げた「ユメ」という曲を聴いたとき、凄いと感じる心の中に、一滴の悔しさが垂れたことがわかった。もちろん「ユメ」は好きな曲だ。メロディも、アレンジも、歌詞も、好きなところは色々とある。いい曲だ。だからこそ、これを「やりたい」と思えた彼女を羨ましいと思ったのだ。

今年の誕生日記念ライブで、甲斐莉乃さんは初のスリーピースバンド体制でのライブを披露した。彼女がトレードマークのゼマイティスで「ユメ」のイントロを奏で、原曲のギターフレーズをアレンジしたベースが鳴り、繊細な抑揚がついたドラムが曲を引っ張る。これまで聴いてきたどの「ユメ」とも違う、新しい「ユメ」が僕の目の前に広がった。

ちょっとした夢が見えた。はじめてのバンドで、はじめてのライブ。僕はそこに、高校生の僕の姿を重ねてしまった。はじめてのバンドで、はじめてのライブ。あのときの僕にしか見えない夢があった。そして、それはいくつもの夢に繋がっていって、その夢から生まれたエネルギーで、なんとか今まで生きてきた。音楽室から新宿ロフトへ、走馬灯のように夢を見てしまった僕は、呆然としていた。

だから、次の曲で簡単に殺された。リーガルリリーの「リッケンバッカー」。さすがに何度か聴いたことがある。シンプルで、でもなんかアツくて、こんな時代でも、こういう曲が人気出るんだな、なんかいいなと、いつかの僕は言っていた。このおんがくも僕をころす。いつかの僕は、そんなこと想像もしていなかった。

甲斐莉乃さんの作品には、「生」や「死」の気配が漂っている。両極どちらかに振り切れるのではなく、その狭間を漂う感覚がある。そういえば、「死生祭」と銘打った最初の誕生日記念ライブから続いてきたコンセプトは、来年のライブでひとまず区切りとなる予定らしい(無論、ネガティブな意味ではない)。ステージ上からやや饒舌気味に構想を話す姿には、もうすでに新たな「やりたい」が見つかりかけている雰囲気が感じられた。かっちぇーなぁ、と思った。

音楽は何度でも僕を殺すし、何度でも僕を生かす。ゼマイティスも、リッケンバッカーも、テレキャスターも、僕を殺すし、僕を生かす。春らしいひとときだった。























【4/1】矢川葵(ex.Maison book girl)

2018年3月31日、2回目のMaison book girlを見たあと、はじめて矢川葵さんとお話をした。当時の僕はアイドルなるもののことなど何もわからなかった。わからなかったからこそ、「そういうもんだ」と思って特典会に参加できたと、振り返ってみて思う。「あんまキラキラしたアイドルって感じじゃないけど、末永くよろしくね~」と言われたことをたびたび思い出す。同時に、そのときは「明日お誕生日なんですね!」と言えなかったことも思い出す。いろいろとわからなかった。目の前にいる人がどれだけキラキラ輝いていたか、彼女たちとの出会いがどれだけ末永く僕に影響するのか。

矢川葵さんは元Maison book girlのメンバーであり、現在は「昭和歌謡を歌い継ぐ」ことをコンセプトに活動するアイドルだ。「瞳はダイアモンド」と「スローモーション」というお馴染みの名曲カバーから活動をはじめ、作詞作曲に堂島孝平さんを迎えた初のオリジナル曲「ほんとはThink Of You」を発表、これら3曲が収録された1stEP「See the Light」をリリースした。その数日後、満を持しての1stコンサートが東京キネマ倶楽部にて開催された。昼夜2公演、フルバンドセットを従えての豪華な1stコンサートだった。

ご存じの人も多いはずだが、矢川葵さんがデビューしたMaison book girlというグループは、それこそ彼女が僕に話してくれたとおり「あんまキラキラしたアイドルって感じじゃない」表現に挑戦し続けたグループだったといえる。サウンドもビジュアルも、なにかと暗い雰囲気で、抽象的で、断片的だった。そうした世界観は時間が経つほどに濃密になり、やがてフロアやオーディエンスまでをも飲み込んでいった。僕も飲み込まれたひとりである。むしろ進んで飲み込まれにいったと言うほうが正確かもしれない。キラキラしているとは言いきれない、ぼんやりとした灯りが見える程度の薄暗い世界だからこそ、ここでなら心地よく過ごせるかもしれないと感じたのだ。結果として、僕はそこから色んなものに触れて、色んな場所に行って、色んな人と出会った。あの薄暗い世界にいたからこそ、いまの僕がある。

ただ、改めて言うほどでもないだろうが(とくにブクガのファンにとっては)、矢川葵さん自身が暗くて、抽象的で、断片的だった、というわけでもないし、ある種のキャラとしてそうした振る舞いを強制され続けていたわけでもない。最初期は、おおまかに理想像としてのキャラは提示されていたかもしれないが、少なくとも僕が知った時点では、彼女はそうした枠を取り込み、自らのものとして拡張しはじめていたように思える。ステージ上に無表情で佇んでいようが、フロアでファンと談笑していようが、彼女はひたすらに「矢川葵」だった。今になって、そんなことを思う。

インタビューなどの言葉の節々から感じたのだが、矢川葵さんはソロ活動をはじめるにあたって、ブクガのファンのことを気にかけていたように思う。彼女自身は誕生日記念ライブなどで多くのアイドルソングをカバーしてきたし、それを知って共に楽しんでいるファンは多い。ただ、そうではないファンも存在する。グループからソロへ。当たり前かもしれない、そういうものだから割り切ればいい話かもしれない。それでも、彼女はブクガの活動終了について話すとき、申し訳なさそうな表現をしていた。それは逆説的に、彼女がブクガを大切にしてきて、どれだけブクガで在り続けようとしていたかを証明してもいた。謝る必要なんてないのにとも思うし、謝りたくなるのもわかるような気がするし、彼女の優しさを感じるのと同時に、僕が昨年5月に知った無力感のようなものも、ときおり心の表面に現れたりした。

矢川葵さんはソロ活動の活動資金をクラウドファンディングで募った。支援すること自体は迷わず決めたが、プラン選択にはすこし悩んだ。最終的に、彼女から手紙を送ってもらえるというプランを選んだ。彼女はブクガのファンのことを気にかけていたはずだ。そして想像するに、僕はまさに「ブクガのファン」に見えているだろう。余計に気を使わせてしまうだろうと思った。でも「ブクガのファン」だってあなたを応援したくなるんだ、と伝えたいとも思った。

やがて、サンリオキャラクターでいっぱいの、かわいい手紙が届いた。矢川葵さんの丁寧な言葉が綴られていた。大好きな人たちの顔が浮かんだ。

まだ1年も経っていないが、このときの感覚はほとんど変わっていない。ここで書くことでもないが、言われずとも、僕はブクガのことが好きだし、負けないくらい、あなたたちのことが好きだ。そう思わせてくれるほどに、素敵な活動を続けてくれたのだ。

僕は未だにアイドルなるもののことはよくわからない。昭和歌謡も、有名な曲ならさすがに聴いたことはあるが、詳しくわかるわけではない。そんな僕でも、「瞳はダイアモンド」が良いと思えた。「スローモーション」が良いと思えた。「夢で逢えたら」がこんなに素敵な曲だなんて知らなかった。たぶんこれは、矢川葵さんが夢見たキラキラを集め続けて、アイドルとして歌い継いでくれたおかげだ。僕はまた新しい音楽の扉の鍵を手に入れることができた。それこそ、はじめてブクガを見たときのように。

余談だが、最後に「ブチ上がりたいんや!」とコンセプト無視で披露された「タイミング」。音楽がテレビの向こうにあった平成の時代。僕にとっての音楽の原風景のひとつだ。当時こどもだった僕は、曲の良し悪しはおろか、歌詞もよくわからなかった。おとなになった僕は、予期せず再会した「タイミング」という曲が、目の前にいるアイドルのことを歌っているように聴こえた。いくら時代が変わり、その読まれ方も変わろうが、歌い継がれることで、「フシギなチカラ」は湧いてくる。当の本人はそんなつもりではなかっただろうけど、こういうズレも僕の「タイミング」ということで、ご容赦いただきたいと思う。