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月記(2021.12)

12月のはなし。


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内山結愛さんのソロライブを見た。そのなかで披露されたRAYの「Fading Lights」の冒頭に、「結ばれなくとも これは愛だよ」という歌詞がある。「結愛」という名前をつけられた人が、これを歌う。そんな出来過ぎた話があるかよ、と言いたくなってしまうが、これがまあ実際偶然に生まれてしまったというのだから、おもしろい。

たしか「結愛」という名前には、人を愛し、愛され、結ばれ、結ぶような人間であれ、という想いが込められていると、いつかの生誕ライブでお母様がメッセージを贈っていた憶えがある。僕が知る限り、彼女はその想いに応えているように見える。それもあって「Fading Lights」の冒頭は印象的に僕の耳に届いていたのだろう。
だがこの日になって、突然気づいた。「Fading Lights」は「結ばれなくとも」という悲劇の可能性を歌っており、そのうえで、愛を結ぶ人が、「これは愛だよ」と名前を与えているのだ。「悲劇」と書いてしまったが、この一節を聴いてしまったなら、もうそれを「悲劇」と呼ばなくてもよくなる。それは「愛」なのだから。表面的に「結愛」という名前から抱くイメージと、より深く根本的な次元にある「愛」という概念。このふたつを「Fading Lights」という曲が偶然にも「結」んでしまっていたのだ。しかも冒頭で。そんなバカでかい波が、僕の心の中に打ち寄せていた。冒頭で。そういえば「Pink」のジャケットは波打ち際だった。最初から。
波の威力が強すぎてライブ全体のことを書けないので、MVを掲出しておくことにする。この曲についても、まだまだ読めることがある。


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クロスノエシス4thワンマンライブ「 blank 」を見た。凄まじかった。楽しみにしていたよりも、ずっとずっと楽しい時間だった。
象徴的だと感じたのは、キラーチューン的なポジションにあった「cross」と「MY LAST DANCE」、そのどちらも演目に加えず、アンコールでの締めを「CONSTRUCTION」に収録されている「VOICE」に担わせたということだ。2ndワンマンワイブ「Construction」は5人体制の「構築」がテーマだったが、これは例えるなら基礎工事だったのかもしれない。その基礎の上になにを造るのか。それこそが「Space」であり、「 blank 」だった。だからこそ、この日表現されたものを締めくくる曲を選ぶなら、「chronicle」からではなく、「CONSTRUCTION」からという解釈もできるだろう。持ち曲が増えたことは、「やらない曲」を選ぶことと同時に、「やるべき曲」を選ぶことも意味する。どうやら「a blank space」で「余白、空き地」といった意味を表せるらしい。基礎の上に柱や壁が組まれることによって生まれる「余白」的な空間をイメージしているのか。それとも建物ではなく「空き地」という土地そのものを構築してしまったという話なのか。どちらがよりクロスノエシスの世界観に近いのか。そのヒントは、来年発売される1stフルアルバムにも散りばめられているのだろう。

4thワンマンライブ「 blank 」は、その瞬間がひとつの演目として完成していただけでなく、その前後に広がる「歴史」と「可能性」、2種類の余白を感じさせるものだった。特に後者の余白は、彼女たちの楽曲から言葉を借りるなら、「希望」と言い換えてもよいだろう。クロスノエシスは、2022年へ持ち越していく「希望」のひとつだ。


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そういえば、なんだか色のことばかり気にしていた。


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年の瀬になって気づいたのだが、おそらくこの数年、僕は「ソロ性」を探求したいと思い続けていたのだと思う。そもそも、日景久人とかいう読みにくい名前をつけた思惑のなかに「他と被らないだろう」というググラビリティめいたものがあった時点で、それなりに出たがりだということが証明されている。さすがにこの事実を否定することはやめた。ならば続けて考えるのは、その出方になる。日景久人というインターネットひよこは、出荷過程において「中の人」を解体することを重視してきた。解体しまくった結果、「女子高生ですか?」と言われたこともあった。僕は結果的には女子高生ではないのだが、どうやらその製造過程には微量の女子高生が使われているらしい。これもまた、解体の試みによって得られた発見のひとつだ。
ただここ数年の変化として、人間の身体をもって「日景久人」をやる場面が急激に増えていった。解体しようとする間もなく、「中の人」と「日景久人」が混ざった何かが、誰かの意識の内に結像してしまう状況。最初はよくわかっていなかったが、ちょっとしてからこの恐ろしさに気づいた。ただ同時に、ある程度はこの恐怖を抱えながらでないと、表せないことがあるとも気づいた。これもまた、解体したがってしまったからこそ得られた気づきなのかもしれない。
これからも変わらず、僕は「中の人」を解体しようとし続ける。ただ、「日景久人」として出荷する際の品質基準については、すこし改訂していこうと思っている。おそらくこれは「日景久人」のためでもあり、「中の人」のためでもある。





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