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「曖昧さ」を恐れて短絡的思考に陥るのは良くないけれど、決断は「曖昧さ」に見切りをつけなければ出来ない。

何かを、決断しなければならない時、自分には決断するだけの十分な根拠となりうる情報を集められたのだろうかと不安になる。世の中、絶対的なことってないじゃない?どちらかというと、曖昧なことが多い気がする。曖昧なルール、曖昧な人間関係、曖昧な気持ち。曖昧さに包まれて生きているよね。

私は、どちらかというと、曖昧さが好き。物事を敢えてファジーな状況にしておく。昔、習っていたお稽古ごとの先生に、「あなたの強みは、する~っと色々な物事をくぐっていけることだよね」と言われたことを思いだす。当時は、その言葉の意味がよく、分からなかったが、今は分かる。そうなんだ、私はどうやら、曖昧さに対して、あまりストレスを感じないというか、その状況を自分にフィットさせるのが多分得意。曖昧な状況では、失敗する前に、色々戦略が立てやすいからね(笑)物事を決定的にしまって身動きあできなくなるより、あれこれ考えちゃう私にとっては、曖昧さはありがたい。

私は、哲学・心理学・宗教に関するゼミに所属していたのだけど、そこで話すこともやっぱり、答えが出ることは少なく、曖昧な状態で議論が終わることが多かった。それは、私達が、物事を捉える時に、色々な価値観から捉えてみることを意識していたからだし、自分のリテラシーがないために、他者が大切にしている価値観を見落としてしまっていることに対する恐れがあったりするからだ。




曖昧さをそのままにしておくことは、少々もどかしいのかなと思う。だけど、曖昧さや答えが出ないことを恐れて、物事を短絡的に考えようとするのは不味いよねっていうことを、ゼミメンバーでは共有できていたので、そこらへんの、もどかしさで、もがき苦しむ人はいなかったかなと思う。

だけど、それは授業という場だったから、それでいいんだよね。

もし、私が決めて動かしていく側だったら、何かしら「答え」を決断しなければいけな

決断するということは、つまり「曖昧さ」に見切りをつけるということ。


これは、私のゼミの同級生が言っていた言葉なのだけど、本当にそうだなっと思って印象的だった。曖昧さが故に、決められないことって多い。だけど、前に進んでいかなくちゃならない。その「曖昧さ」に見切りをつけることは、果たして正解への道なのか、不正解になるのか誰も分からない。

曖昧さに見切りをつけることは、勇気がいるんだよね。分からないことを、見切り発車って怖い。でも、その勇気はちゃんと称えたいなって思う。

他者の決断したことも、自分の決断したことも

そこには勇気があったことを忘れないでいたい。

おしまい。

2020/02/18

HINAKO



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