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知ることが幸せなのかを考えてみた

何度かnoteに投稿しようと思いましたが、自分の中で回答が出なくて書けなかったことを今日は書こうと思います。

2019年の初夏。私は仕事で3ヶ月インドに滞在していました。出張や週末の旅行で、インド国内を数カ所訪れましたが、特に色々なことを考えた場所があります。そこは西ベンガル州のとある集落でした。

インドのコルカタ空港からトータルで8〜10時間位車で移動し、辿り着いたのは山の奥の集落でした。現地で携帯電話の電波をキャッチできなかったため、正確に場所を記録できなかったのですが、このチャンディル・ダルマ・エレファント保護区の辺りの集落(南側)です。

この集落では物々交換で生活をしていました。他の集落との交流や商いはあまりない模様で、お会いした人は石でまな板を作ったりしているよと話してくださいました。ある人は牛を引いていました。牛乳を売っているのでしょうか。小さいですが、少し畑もありました。

彼らの生活はできる範囲で生活しているという感じです。全員ではないでしょうが、集落に小学校があるようで、少年は学校は楽しいよと笑顔で話しています。その集落でも貧しい家族は、屋根のないバス停のような場所を住処とし、地面にただ座っていました。集落の風景はこんな感じです。(写っている人達は私の同行者がほとんどです。)

のどかな場所ではありましたが、私には衝撃的な光景でした。貧しいということではなく、彼らはここで産まれ、ここで家業をして結婚し、人生を終えるんだなと感じたのです。学校での勉強ができる子供達は勉強することはできますが、集落の外の世界も知らないし、家業や集落に存在する仕事以外は知らないという環境。一歩も集落の外を出ずに一生を終える人もいると思います。でも、集落の人達は笑顔で、その環境に卑屈になっているようにはあまり感じなかったのです。

帰りの空港で、インド人のスタッフにどうだった?と聞かれ、感じたことを話しました。彼の回答はこうでした。

そうだね、彼らの人生はその集落の中で始まり終わるんだと思うよ。それが彼らの人生(今生のような言い方でした)だからね。でも我々より心は幸せかもよ。

そう、私も思いました。知らないけど幸せそうなのです。知らないから幸せとも言えると思います。与えられた場所だけで生きることが決して不幸せということではない。今まで知ることで得られることがあると思ってきた私の考えは果たして正しいのだろうかと自身に問いかけました。帰国してからも数人の友人達の意見を聞いたり、時折思い出して考えていました。

明くる2020年、我々は体験したことがない未知のウイルスとの生活と向き合うことになりました。様々な情報により知らず知らずに疲れてしまって、テレビの報道やインターネットの情報を遮断した人も多くいたと思いますが、私もそのひとりです。情報に疲れ切った時、インドでのこの出来事を思い出し、最低限の情報収集のみとしました。驚くほど短期間でダメージから回復することができたのです。

その経験から改めて、知ることは幸せなのかを考えました。知ることができる人生、知らないで生きる人生、どっちが幸せなのかを様々な観点で考えた結果、「知ることができる人生」を選びたい、すなわち知ることは幸せだという結論に達しました(2021年4月時点)。

我々は、知ることで自ら自分や家族の人生に影響する決断をしていくことになります。これは結果良ければ全てよしということもあるし、決断に後悔する結果となるかもしれません。たとえ後悔する結果となっても、自身で決断したという事実があるために後悔レベルは知らない状況よりも低いと思います。

一方、正しく「知る」ことの難しさを感じます。多くの人も唱えていますが、様々な情報が存在する現代において、正しくない情報や理解が難しい情報も多く存在し、我々はその情報に翻弄されています。現代ではただ「知る」だけでは幸せは得られず、その情報が正しいかを判断する能力、そして正しく解釈できる能力が必要となります。沢山の情報がある現代は幸せかもしれないけど、逆の結果を生むともいえます。

この「正しく知る」ためには知識や経験/技術が必要です。この習得も難しいですが、人間の感情が難しさに拍車をかけているのではないかと思うのです。例えば、新しい事実が見つかった、これが正しい事実ですとデータと共に知らされても、既存の事実が正しいに決まっていると自身が感じる「感覚」や信じている事実でないということで判断してしまうことが往々にしてあります。自身の考えと違うもの、それを正しいかどうかを判断するということは、知識だけではなく、自身の感情も判断に影響するとも思うのです。テレビを見ていて、とあるコメンテーターがデータと共に正しく話していても、いや私はそんなことは思わないと根拠もなくコメントを返している視聴者を見たことはありませんか? または、テレビで言ってたからそのことは正しいと多くの人が判断(テレビの情報は正しいという思い込み)し、実際の現場で混乱が生じたりすることもあります。この記事を書いている私自身も自身の思い込みで失敗することは決して少なくありません。その難しさを痛感し、時にダメージを受けています。

我々人類は正しいことを知ることや真実を突き止めることを、とてつもなく長い間続けています。少なくともギリシャ時代の時点でもたくさんの議論がなされ、色々な技術や学問が生まれています。ですが、いまだに未解決のものがとても多いことからも、正しく判断することということが本当に難しいことが語れると思うのです。我々の祖先もまた、その難しさを感じていたのではないでしょうか。

しかしながら、我々自身も時代も常にアップデートしているという事実があります。助けとなるツールもたくさんありますし、現代もたくさんの研究がなされ、真実の追求がなされています。それらは我々が正しく知って判断する手助けをしてくれるはずです。幸せの形はひとそれぞれではありますが、判断することが必要となった時、自身が納得のいく判断ができると、その「幸せ」に近づくのではないかと感じます。

たらたらと書きましたが、明日以降、私の考えはころっと変わるかもしれません。それもまたよしと思っていただけると嬉しいです。だって、今だって正しく判断できているかはわかりませんもの。


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