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「社会への不信」が取り払われた瞬間から、世界の見え方が変わる!?

孤立し鬱屈していた高校生のとき、僕は電車で学校へ通っていた。

向かいの席の女子たちが、楽しそうにキャッキャと笑っているのを目の当たりにしたときに「バカにされている」「自分のことを笑っている」という妄想に捉われたことがある。

もちろん今、こうして冷静に振り返ると彼女たちは、楽しいことがあって笑いあっているだけで、僕をさげすんだわけではない。

高校時代の僕のように度を越えた鬱積で、客観的な判断ができなくなることがある。

世の中を渡っていく上で、必要なものがある。

それは信頼だ。

世間や人に対して不信が芽生えると、物事はことごとく上手くいかない。

すぐに「傷つけられた」と感じ被害妄想に陥ることも少なくない。

外側から見ると、過失を犯しているように映る人間が「俺は悪くない」「俺は被害者なんだ!」と声高に主張するケースが多いのは、当人の根底に不信が根付いているからだ。

不信の眼鏡をかけている人は生きづらい。

不信は、悪い人間関係の中で生まれることが多い。

不信を信頼に変えるのも、また人間関係だ。

環境の正体は人間である。

だからこそ「誰がその場所にいるのか?」「自分とフィットする人たちなのか?」などを吟味しなくてはいけない。

良い人間関係に恵まれると不信が取り払われ、世界がフラットに見える。

世界が輝いて見える必要はないと思うが、折り合いをつけて暮らすためには、フラットな状態で認識できるようになった方がいいだろう。


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