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出来ない(やれない)理由

 小難しいこと、疲れること、気合が必要なこと、そんなことをする手前にふと「出来ない(やれない)理由」を探している自分に出会うことがある。しかもそのことに頭をフル回転させて努力しているのだ。なんとも情けない自分である。そんなことに労力を割く余力や時間があるのであれば「やってしまえばいいものを」と思うのだが、確実に弱い自分は存在する。

 人間はついつい先延ばしをしてしまう生き物であるということを聞いたことがある。それと似かよった思考傾向といえるのかもしれないが、やるか、やらないかより、やれるのか、やれないのかということを考えがちなのかもしれない。
 常にとか頻繁にではないが、自分の中にもそのような弱い自分は確実に存在しているようで、疲れを感じているときに「こんにちは」などと顔を出してくるのである。

 しかし、悪い方向ばかりで考えるのは一方的、ここで良い方向で捉えてみたらどうなのか、そういう思考傾向が出てくることは「弱さ」だけなのか、考えてみた。

 ついつい無理をしてしまう、ついつい勢いが勝ってしまう、軽々に判断してしまう、そんなことは誰にでも往々にあることとして、そんな状態で行動に移すことにはそれなりの代償がともなうものでもある。回りくどい「出来ない理由」を探す行為も、時には自制であったり事前の危険回避、そして資本である身体や心を守る行為であるとも言えるのではないか。
 そう考えると、常に「出来ない理由」ばかりを探して逃げることはよいこととは言えないが、そういう思考傾向は危険回避という人間の本能の一部でもあるのだと肯定的に受け止めることも必要、一方的に弱いと判断するものではないように思えてくるのである。

 しかしながら現実的に、やらねばならぬことは多々あり、また、自らを成長させるためには超えるべき一線があることは確かである。「やるべきことはやる」、同じ労力をかけるのであれば「やってしまえ」「出来る方法を考えよ」は当然に必要であることも間違いない。まずはこれを外さないことが大前提であるということは芯にたずさえておくべきだと認識している。ただ一方でときに弱いと思える自分も認めてあげることも必要であろう。そんないわゆる「人間らしい自分」と上手に付き合っていくのもまた人生、と腑に落とし、ここに残しておく。

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