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021 暮らしにモノサシをはさむ

 ご無沙汰です、シタシマです.やることはたくさんあるのですがモチベーションが上がらずピンチでございます.そんな低モチベーションにかまけて映画を見てしまったので、その感想をぶちまけたいと思います.

 見た映画は『日日是好日』です.原作はエッセイなのですがこちらはまだ手を出しておりません.公開したときから気になっていまして、ようやく見ることにしました.あらすじは割愛しますが、めちゃくちゃざっくり言えば「主人公である女子大生の典子が茶道を習い、日常を見つめなおす物語」となるでしょうか.茶道といえば、ぼくは高校の文化祭の時に茶道部の開く茶会に行ったくらいで馴染みがなかったのですが、この映画は茶道が身近に感じられるようで新鮮でした.

お点前=固定化?

 さて、映画を見て感じたことは作法って何の意味があるのだろうということです.劇中で典子はお点前(いわゆる茶道における一連の作法)の一挙手一投足に「なぜ?」「どうして?」とお茶の先生に問います.それに先生は答えることをしません.ただお点前をするよう促します.ぼくも主人公と同様でした.1つ1つの作法には何の意味があるのだろう、どう生まれたのだろう、と気になりながら見ていました.必ず何かの意図があって体系化された作法だとは思いますのでちゃんと知りたいのですが、正解は脇に置いておいて、映画を見て考えたのは「茶道における一連の動作は日常のある部分を固定化することではないか」ということです.今だとルーティンと言うこともできるのでしょうが、一日や一週間の間に同じ動作を繰り返し挟み込むことに、まず意味があるのではないかと思います.

固定化から見えてくる小さな差異

 ではこの固定化が何をもたらすか.それは日々のささいな変化、ささいな動きに意識が向くようになるのだと思うんです.映画でも、主人公の典子は茶道を習う中で日々の小さな違いに気づく場面が描かれています.例えばお湯と水の流れる音の違いや、季節によって降る雨の音が違うことなど.これらは茶道において行われる一連の作法を繰り返したからこそ気づくことができたものとして描かれます.一連の流れや動きを繰り返し、日常の一部にしていくことで細かな違いに気が付く余地が生まれる.そのモノサシや芯のような働きが、きっと茶道のお点前にはあるのだと思います.

建築だって似ているかも

 この「固定化」のはなし、建築だってそうなのではないかと思います.例えば窓はその建物が建ち続ける限り同じ枠で風景を切り取ります.一方で窓から見える景色は絶えず移り変わります.窓という枠によって差異に気が付くということもあるのではないかと考えました.
 この映画を見た後に思い出されたのが雑誌『住宅特集』2018年10月号に掲載されている論考『背景へのパースペクティブ』です.『真鶴出版2号店』が掲載された際のtomito architectureのお二人によるテキストなのですが、その一節がとても印象に残っています.お二人は、一般的な建築では背景としか表現できない事物にこそリアリティがあり、その出来事の連なりとして環境をとらえているとし、

同じ方角から日が差すこと、あの犬が同じ時間に散歩に連れ出されることの間に、建築の根拠になり得るかの線引きをせず、どの出来事に強度を見出し、信頼し、建築的問題に引き寄せるかという選択が建築のはじまりだ.

 と言います.建築が大きく、動かない、つまり固定化されるからこそ、「出来事」を引き寄せて考えられるのではないかと考えました.建築にどんな変数を入れてどんな風に処理するのか.様々に立てられた問いをそのまま集めることでうまれる豊かさがあるのではないかと誌面を見て感じました.いつか実際に足を運んでみたいです.

 すこし強引に建築とつなげて考えてみました.こうした日々の暮らしにモノサシをつくることは「違いに気が付く」ことであり、それが「現在を見る」ことへつながっていくことといえそうです.瞑想や座禅もその類なのでしょう.ぼくは過去の失敗とか後悔を引きずってみたり掘り起こしてみたりして、いつのまにかめちゃめちゃ落ち込んでいることが頻繁にあります.それをすこしでも和らげるために、禅や道といった思想を学ぶことはたくさんの発見がありそうです.

ではまた.


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