治して緊張

おはようございます。はー。やはり緊張するんですが、緊張しなければならないですね。緊張しなくなったら何事もうまくいかないような気がします。緊張することで準備をするようになりますからね。はー。こんなもんですわ。そろそろ始めますね。

 はい、冒頭からずっこけてしまいました、今日の投稿。いやーなかなか緊張しすぎるのもよくないようであります。緊張しすぎると間違う。じゃあ緊張していない時は間違わないか?と言うと、そんなことはないと思うんですね。緊張していない時は間違ってもそれほど落ち込まない。気分的に、間違ってないとさえ錯覚するからですね。してみると物事、呑気なほうがいいのかもしんない。失敗しても心が折れないからです。必要以上に緊張していると失敗した時ダメージが大きい。厄介なのは心的外傷=PTSDとして後々まで尾を引くということでしょうかね。詳しいことは知りませんよ。私、医者ではありませんので。

 ま、今日の結論から申し上げるとですね、病気は説教では治らない、ということですね。最近よく耳にする「パニック障害」という言葉がありましてですね、過去の出来事がフラッシュバックして混乱状態に陥るということなんですが、人間、年をとるとそんなこともありますよ。賢くなるということは、より自分を深く見つめるということではないでしょうか。自分という井戸を掘っていくと宝物が出てくる時もあるし嫌なものが出てくることもあります。そんな時、中途半端に賢いと過去の出来事を反省してしまう。多分それがパニック障害なのではないですか。そんな時は説教したり同情をしたりというのは有効ではないと思う。病は説教では治りません。同情では癒されません。適切な処置、薬剤の投与、環境の整備、身体的な療法が求められるのではないでしょうか。カウンセリングによって話を聞いたり説教をされたりというのは安上がりな方法でありまして、それゆえに責任の所在が明らかではない。
 例えばあなたがパニック障害で苦しんでいるとしますね。パニック障害のみならずPTSDでもたんに不安な病でもいいですよ。それで悩んで他人に相談してアドバイスを受けたとします。そしてそれでもPTSDが癒されない場合、責任はカウンセリングした人にあるんでしょうか?違いますね。カウンセリングした人は既定の情報や方法を用いているだけですから。PTSD治療の失敗はその手法に問題があるということになるわけですね。ま、そんなこと言い出したら医療全般そうなっちゃいます。
 一定の治療法が有効でない時の責任の所在は治療法にあるということになっちゃうわけですね。医師や看護師はその手法をコピーしてペーストしただけですから。その人たちが開発したオリジナルの手法ではない以上、医師や看護師の責任を問えないかもしれない。それでも担当者の責任が問われることが多い。医療って、ある意味割に合わないと言うかやってらんない商売ではないでしょうか。

 昔はね、「病は気から」なんて言われまして、まあ荒っぽい俗説が流布しておったものでございます。病気や怪我は一晩治れば、じゃねえや、一晩寝れば治るわ、みたいなね、そんな言説が結構あったりして。かっこいい言い方をすれば民間療法。嫌な言い方をすればおまじないや風習の類だったんですね。だけどプラシーボ効果という実験があるようにですね、その気になれば病気は治っちゃうという説もあるんですね。そして親族が病に倒れた時は家族がお稲荷さんに祈りに行くとかね。そんなのは医学ではないんですが、だけど、そういう行動をとることで不安はある程度解消されたかもしんない。その不安の解消がプラシーボ効果となって病に倒れた人の気分が持ち直すのであるならば、お稲荷さんも有効であったと言わざるを得ない。

まあ私が言いたいのはですね、病は説教や同情では治りません。薬を飲むか手術を受けるか具体的な行動をとらないとね、おそらく治らないし、そうすることで周囲も納得するんじゃないでしょうか。これもまたかなり無責任な言い方になりますけど。ちなみにこういう意見は私のオリジナルです。何があってもですね、あれですよ、責任は自分で取れ。ということでしょうか。さようなら

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