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イジり笑いは高等技術

誰かや何かを揶揄して笑いを取るというのは、よく「イジり」と言われます。

簡単に笑いに出来るので、結構誰でも手を出してしまいますが、個人的には「イジり」って結構なお笑いの高等技術なんじゃないかなと思います。

イジられる側の特徴や欠点、短所などをネタにして盛り上がるわけですから、そのイジられる対象とイジる対象には関係性が必要です。

その辺を勘違いして、イジる側が単なる悪口を言ってしまっているだけになることもあります。特に日本社会の上下関係、先輩後輩、年上年下などの属性を重視する人間関係では、上側の人が下側の人をイジることも多く、ともすれば強圧的、一方的な発言となってしまって楽しい笑いにはならないことも多いです。

イジメ問題も、「イジり」と「イジメ」の境界線を理解していない、あるいはそのフリをして誰かを傷つけているのを見過ごす周囲の問題という一面があります。学校のクラスでイジメがあっても、「じゃれているだけだと思った」という教師側の主張がちょくちょくあります。本当にそうなのかも知れませんし、虐める側も実際に虐めるつもりではないのかも知れませんが、イジられている方がイジメだと思ったら、それは「イジり」ではなくなります。

イジりネタは難しいのです。プロの芸人でも必ず成功するわけではないでしょう。微妙な空気やイジられた側が起こった場合はテレビで放送しませんし、あくまで上手く行って成功したイジり笑いだけがお茶の間に届けられています。

それを見て、
「ヨシ、自分も誰かをイジって笑いを取ろう!」
と意気込んで素人がやると失敗しかねません。本当に成立するには、しゃべりやネタの面白さに加えて、イジられる側の寛容性とイジる側の愛情が必要です。また、その笑いを聞く側にもイジる人とイジられる人の関係性を理解して、本気で悪口を言っているのではないという了解のもとに、ようやく笑いが生まれます。

先般の、森喜朗氏の女性がいる会議は長いという話も、一種の女性イジりだったかも知れません。今の時代では「女性とは〜〜」という切り口は立場のある人が公的に話すと、例え褒めていてもダメなものだと思います。

いっそのこと個人名を挙げて、誰それがいると会議が長くなる、という発言だったら女性差別と言うよりは個人イジり扱いになっていたかも知れませんが、それはそれで結局はイジメだと非難されていたでしょう。

もちろん昔からイジりネタというのはありました。それに対して内心では傷つきながらも周囲の空気や力関係のために感情を押し殺したイジられる側が、最近でははっきりと反対、対抗するようになってきて、イジり笑いが実は難しいという状況になってきた一面もあると思います。

少し前からよく見かける、「誰も傷つけない笑い」というのは、イジり笑いの難しさ、間口の狭さに対して生まれたものなのかも知れませんね。

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