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「綸言汗の如し」という格言はSNS時代にこそ重要

以前、こちらのnoteで

夏までにも一波乱ありそうな気もします。

と書きましたが、まさかすぐに3月中に波乱があるとは中々の五輪になりますね。

元々は去年3月の話であって、あくまで身内の中での冗談として書かれただけですぐに撤回したものを、今になって暴露されたというのは、内部で何らかの闘争なり抗争なりあったのかも知れませんが、少なくとも運営側が「みんなで一致団結して頑張ろー!」という状況でないことが改めて明らかになっただけです。

これまた以前noteに、

こういうことも書きましたが、自分をネタにする自虐ならともかく、赤の他人をイジるのは非常に難しいものです。今回のネタも単純に面白くないとか言われていますが、ネタの系譜的には昔のフジテレビのバラエティがやりそうです。

そういえば、「王シュレット事件」もフジテレビでしたが、他人をネタにするのは本当に難しいのです。面白い、面白くないという基準とはまた別に、どこまでイジって良いかという基準もクリアしないといけないのですから。

凄い業績を誇る、偉大なクリエイティブなディレクターであったとしても、クリエイティブディレクターという役職に就いてしまうと、クリエイティブではなくなるのでしょうか。

・偉い人が言っているから、これは失言ではない
・偉い人が失言したけど、過去の偉業に免じて許そう
・偉い人や昔凄かった人でもダメなものはダメ

人それぞれ、対応は上記3つのどれかになるでしょう。物事の是非はその物事だけで考えるべきか、過去や未来も考慮すべきかという観点で変わることになります。

ただ、偉い人はどうしたって注目されます。クローズドな状況下での発言すら気を抜くことが出来ないのです。

「綸言汗の如し」という言葉があります。元々は、皇帝が一度口にした言葉は、訂正も撤回も出来ないから、軽率に発言してはいけない、という戒めです。

はるか昔、古代の周の時代の成王がまだ若く、さらに幼い弟と遊んでいるときに、桐の葉を与えながら土地を与えよう、というおままごとみたいなことをした時、臣下がその弟に土地を与えて侯に封じるように奏上しました。

当然、成王は「ただの戯れだ」と言いましたが、臣下は
「王の言葉に戯れはなく、王の言葉は記録され実行され唄いあげられるのです」
と答え、弟の唐叔虞は晋の地に報じられました。後に、晋の文公(重耳)を排出する晋の国がこうして生まれたとされています。

事実はどうあれ、トップの言葉は戯れでもおろそかにはされず、それによる影響大なのだから、冗談や戯れ言だからという言い訳は通用しないということです。

偉い人でなくたって、言ったらアカンことは言ったらアカンのです。デジタルで発言したらオープンな場でなくとも永久に残るのですから、尚更気をつけるしかありません。

多分、ここが一番過去との大きな違いになっています。100年前の人も、50年前の人も、今以上に失言はあったでしょうけれど、クローズドな場での自筆のメモでなければ、後に決定的な証拠は残りませんが、今の時代はあらゆる発言・投稿がデジタルで永久に残ります。

ウェブ2.0時代、SNS時代の前に大立者になった人が、SNS時代になってからやらかすというのは、この歴史的な変化に対応出来ないからでしょう。多分、似たような暴露話は今後も溢れかえるでしょうね。

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