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生活雑感2003-2010

インターネット上を探すと多くの人が中国での生活を書いている。自分も18年間、ここで暮らしてきたし、その変化も見てきた。家族も仕事も生活も全部ここにあり、日本は年に数回帰る場所になってしまった。最近になって、中国が結構好きな自分にも気がついた。そんな中国びいきの視点で、この18年間の生活雑感を書いてみたい。個人的なイベントもあり印象の強い、3つの期間で分けている。それが、2003年〜2010年、2011年〜2015年、2016年〜2021年。

高校生の頃、Japan an Number Oneという書籍がベストセラーになった。既に経済発展の頂点に達した頃で、失われた30年の始まりは目前だった。昔、父と母が教えてくれた日本の高度経済成長を知らない自分にとっては、2003年から中国に来れたことは、とんでもなく貴重な経験だったと思う。この18年は本当に変化に飛んだ時代だったから。


突然の出向辞令から一月後に上海に辿り着いた

7月、夏、メガネは直ぐに曇ってしまうというような高い湿度。中国語は出来ず、仕事でも生活でも右往左往するしかなかった。今も覚えているのは、仕事終わりに同僚が連れて行ってくれたラーメン屋だ。仕事を終え外に出ると外は真っ暗だ。広い通りの向こうに一箇所だけ明かりがついている店がある。そこまで続く街灯は、付いてるだけで道を照らしてくれる程には明るくない。だからこそ、開いている店の明かりが明るく見えるのだ。

店に着く。が、煌々と言うには、ほど遠い明るさだ。それもそのはず裸電球が高い天井からぶら下がっているだけだ。反面、活気には満ちていた。店員は、怒鳴るように注文を取り、客も大声で言い返す。料理をせかす声、食器がぶつかる音、食べる音。ひしめき合う客たち、ラーメンの椀を運んでくる店員。部屋いっぱいの人が、わさわさ、わさわさと動いていた。冬などは、薄いカレー味の兰州拉面と锅贴(餃子)を頬張ると足の先まで温まった。それが合わせて10元(140円)。

朝の市場も面白い

足を踏み入れると、両側にビニール袋詰めされた野菜が所狭しと並ぶ。地べたに豚の頭も、鳥籠に入った鶏も並ぶ。圧倒的な匂い。出口の周りは特に人で賑わっている。市場に出入りする人目当てに出店が所狭しとならんでいるの。ひと抱えほどもある大きな蒸籠、もくもくと立ち上る湯気、中にはぎっしりと肉饅頭が詰まっている。真っ白なそれを割ると、肉汁がこれでもかと溢れ出し手のひらに滴り落ちる。そして、その肉汁を溢れない様に啜るのだ。うまい。傍には給食のシチュー缶サイズに入った豆花(豆腐)がある。やはり熱々のそれをオタマでポリエチレンの器に入れ、ラー油、醤油、ネギ、乾燥エビを振りかけてシャクリと食べる。やはり美味い。ちなみに4元(60円)。

日が暮れ、街灯が灯ると…

街灯の明かりはオレンジ色にぼやけていた。空気が汚いのだ。上海のあちこちで、突貫で進めている道路工事やマンション建設のせいだ。いまは高速で1時間半程度で行ける上海-蘇州間には、凸凹の下道を3時間もかけて行った。その高速道路を突貫で作っていた。

会社までの道のりで間違えた交差点を曲がってしまったことがあった。砂利道の道路以外何もない場所に出てしまった。マンション建設予定地は、やっと基礎工事が始まったばかり。何しろないもないところに、道も建物も作っていくのだ。その頃、上海市内からのバスは、地平線の向こうから砂埃をたててやって来るものだった。

街を歩くとドカタのおっちゃんが沢山いた。夏になると、汚れたランニングシャツの裾を胸のところまでたくしあげ、腹を丸出しに歩いていた。若い女性が来ていたのが、おそらくナイロン生地の大きな花柄などをあしらったワンピース。綺麗ではあるのだけれど、何しろ生地が薄く、風でも吹こうものなら体のラインが透けてしまう。それでも、颯爽と歩く姿は、ある意味で格好良かった。これが冬になると皆んな、茶、黒、灰。この頃の服装の主要色だ。赤や黄色もあるにはあるが、先の3色と混ぜた様な色になっいて艶やかではなかった。ちなみにスーツは、工事現場のおっちゃんが着るもので、ビジネスマンはいなかった。

外出すれば礼儀など皆無で、ズル込み割り込み、釣り銭は投げられ、道を聞けば間違った方向を教えられる。タクシーは怖いほどのスピードを出し、飲酒運転もあまり咎められなかった。そもそも、僕がいた場所は車自体が少なく、走っているはトラック、社用車、タクシーのどれかで、夜半になればその影もなくなる。同僚は酔っ払って1番の大通りで眠りこけ公安に保護されてたりしていた。

僕の出向先は工場

2000年代初頭、海外から多くの製造業が中国に投資をした。第二次進出期だ(第一次は1990年代)。日系企業もかなりの数の工場を建てた。工員さんは女性が圧倒的に多くて、人員募集の張り紙を出すだけで工場前に人だかりが出来た。12時間働き、退勤時間になると、工場前には出店が立ち並ぶ。そこで出す食べ物は格別に安くて、1元とびっくりする。反面、流行り始めた手机(携帯電話)は、給与2〜3ヶ月分のぐらいした。でも、みんな持っていた。通話料金は高いので、通信手段はショートメッセージ、色んな絵文字があったと思い出す。: ) スマイル、; ) ウィンク、、等々。あの頃、电瓶车(電動自転車)でボーフレンドに迎えに来て貰うことがステータスだった彼女たちは、今どこで何をしているのだろう。

僕が赴任した頃、工場には10人ほどの日本人がいた。工場の拡大に伴い50人ほどまで増えたと覚えている。同年代は僕を含めて三人だけ、後は15歳以上は年上の方ばかりだった。ほぼ大手企業の早期退職社だった。今思えば、日本の製造業は大きな転換点を迎えていて、多くの日系メーカーが敗走を余儀なくされる瀬戸際に立たされていた。ただ、僕個人にとっては、年配の方と仕事をする機会にもなり、その後に繋がる大きな糧を得ることが出来た。その頃の日本では、プレイイングマネージャーという肩書きが増えて、人を管理したり育てたりする余裕が亡くなっていたようだ。実際、僕なんかは銀行主催の研修が1日だけあって、翌日から営業は外に出ろと放り出された。なので、工場の面々は仕事の先生なのだった。たいそう怒られもしたが、今でも感謝している。

先輩方や同僚

一緒にご飯を食べお酒も飲んだ。通いの日本料理屋には、たくさんの日本人がいた。ある人は、僕らは戦友だよと言い、それに共感・納得しては、酒を飲んだ。みんな、本社と戦っていたのだ。「お前が来てやってみろ(OKY)」は、この頃から駐在員の常套句だ。

凍った刺身、薄っぺらいかちこちのトンカツ、ゴムみたいなハンバーグ、、、。飯の味はともかく、和気藹々・意気揚々と、みんなが顔馴染みで楽しかった時代だ。飲み食べ放題で80元(1300円)!そりゃる食って飲んで、20kg以上太って糖尿病にもなる。

2008年のオリンピック、2010年の万博

街が広がり、街がつながり、大きく大きく発展していた時代だったと思う。上海市外へは高層道路と高速鉄道、市内各地域には地下鉄が広がり、交通網が一気に整備された。街は明るくなり、色が華やかになり始めた。給与が上がり、物価も上がる。確かに2008年末にリーマンショックはあったけれど、それが発展に影を落としたという印象はあまり感じていなかった。けれど、万博があった年、僕は駐在で来た会社を辞めることになった。

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