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小説「人魚の涙」

男には2本の足があって、彼女にはそれがない。たったそれだけだった。足の代わりに、彼女には海より深い青色の美しい鰭があって、男は、それが月の光をきらきらと反射する姿が好きだった。
人魚は必ず夜にあらわれる。月のない夜であってもいつものように彼女が岩陰で星を見ていることを、男はわかっていた。彼女の周りは、空気が光るから。そういう訳で男は、それが夢か、または自分の幻想かなにかだと思い込んでいて、人魚に近づくことはしなかった。
しかしある夜、その夜だけは、人魚が、どうしても現実にいるような気がして、それを確かめたくなって、男は、足を濡らして人魚のもとへ姿をあらわしてしまった。月がちょうど、いちばんに満ちた夜のことだった。
「君は、僕の夢かい?」
男は聞いた。
「夢?ここは、あなたの夢なの?」
人魚は戸惑う様子で男にそう聞き返した。ヴァイオリンのようにつややかな声だった。
あぁ、現実だ。男はそう思った。本当はそれだけで良かったのに、生きている人魚の艶やかさにすっかり魅力されて、舟で人魚の居る岩のすぐそばまで行ってしまった。
「君は、すごく綺麗だね。」
男がそういうと、少し頬を染めて嬉しそうにした人魚だが、男が、海の底には君のようなのがたくさんいるのかいと聞いた途端、人魚はそっぽを向いて、「知らないわ」と答えた。
人魚は、ただひとりの人魚だった。物心ついた時からずっとひとりで、魚を追い回して遊んだり、貝殻を集めたり、港の人間をじっと眺めて暮らしてきた。だから男といろんな話をするのが楽しくて、空が白むのにも気づかなかった。
水平線から陽の光が漏れて、人魚は慌てて海へ潜った。それから、少し水面に顔を出して、
「陽の光で輝けないの。眩しくて、溶けてしまうの。あなた、また日が沈んで月が出る頃に私がここへ来たら、あなたも会いに来てくれる?」
と言った。
「もちろん。きっと来るさ。君も僕も、実在するんだから。」
そういうと人魚は安心したように、それでも別れを惜しむように、ゆっくりと海の底へ消えていった。
男もまた記憶の中の人魚にみとれながら、夢見心地で陸へ帰った。
次の晩も、その次の晩も、男と人魚は月の下で会っては、お喋りをしたり、貝殻やネックレスなどを贈ったりした。
月が欠けていくとともに人魚は、男のことを考える時間が増え、その分男を見つめる瞳の温度も上がっていった。そしていつしか、四六時中男のことを思うようになった。人魚は、眠るということを知らなかった。

「新月の夜が来たら、君に花を贈るよ。月の光に弱い花なんだ。君の瞳の色とよく似ているんだ。きっと、綺麗だよ。」
三日月の晩、男はそう言った。男がまた自分のことを思ってうつくしい贈り物をくれる!
喜ぶ反面、人魚には新月について、ひとつ思い出すことがあった。『人間に恋をした人魚は新月をもって海に溶ける』という言い伝えを、亀の老婆に聞いた事があるのだ。亀は、今まで出会った海の生き物のなかでも数少ない、言葉を解す者だった。
「だから、人間に出会っても恋をしてはいけないよ。新月の夜が明ける頃、海に溶けるか、さもなくばそのまま陽の光に焼かれて死んでしまうからね。もし、恋をしてしまったらーーーーそのときは涙を流すんだ。恋の毒を流せるのは、涙だけだからね。涙の分だけ、人魚は生きる。けれども、人魚はなかなか涙なんて出ないものさ。涙なんて、海に紛れて消えてしまうからね。だから……」
どくん、という音が聴こえた。喉がからからにかわいて、急に胸の当たりが膿みはじめた。
寂しさとも、悲しさとも違う厭な感情を人魚ははじめて知った。それが怖くて仕方がなかった。
「ねえ、恋ってなに?」
人魚は恋を確実には知らなかった。神様どうか、という気持ちで、男に聞いた。
「恋がなにかって?……難しい質問だね。誰かを特別好きって思う気持ちじゃないかな。言葉では上手く言えないけど、たとえば朝起きてからずっとその人のことを考えるんだ。次会ったら何を話そう、とかね。僕は、いま君に恋をしているよ。」
男が照れくさそうに言った。
しかし人魚は今にも倒れそうな思いだった。やっぱり、自分の男への思いは、これは恋なのだ。自分は、きっと、新月まで男に恋をし続けて、海の泡となって消えてしまうのだ。あぁ、もう鰭の先の消えかかる気がする!
人魚は簡単には死なない。死ぬ事が怖いのだ。けれども涙は出なかった。それどころか、いつものようににっこり笑って、頬さえ赤らめて「私も、あなたに恋をしているみたい」なんて言ってしまうのだ。人魚は、人魚とはかなしい生き物だ、と思った。
その夜の別れを告げるとき、男は、
「新月まであと3日だ。きっと約束の花を贈るから、そしたら僕たち、恋人どうしになろう。」
と言って小さく手を振った。
人魚は何もいえずに、男と別れたあとの海の底での時間を、やりきれない気持ちで過ごしたが、それでも涙は出なかった。

死の恐怖や寂しさと戦いながら、人魚は、こんなときでも自分が男のことばかり愛おしげに考えていることに気がついて、しかしそれは、決して苦しいことではなく、記憶の中の男の笑顔が、人魚の心を温めていったのだった。
男が知ったら、どう思うだろう、と人魚は考えた。男には思い切り悲しんでほしいと思った。泣いてほしいと思った。死ぬまで私のことを思い出して、その度に私の居ない現実に苦しみ悶えてほしいと思った。けれどもそれと同じくらい、男には自分を忘れて、誰か人間の優しい女性と恋をして幸せに暮らしてほしいとも思っていた。人魚の心は矛盾していた。人魚は、人魚とはずるい生き物だと思った。

男と別れて泡となる決意ができたのは、新月の夜がはじまる頃になってのことだった。
その日男は、夜がきて何時間経ってもあらわれなかった。人魚は、このまま男が来なければいいと思った。どうせなら、このまま会わずに私だけ、あなたを想って死ねればいいと思った。あなただけは最初から、私と違ってこんなかなしい呪いなんかに囚われてなどいないのに。ぜんぶ、あの人に恋した私が悪かったんだわ。
そう思うと、少し泣けるような気がした。かなしいことを考えた。自分が無惨に消え去る姿や、居ない家族のこと、海が枯れ果てて燃えることを想像した。
しかし夜明けまであと1時間と迫ったところで男は現れた。まだ人魚の目はかわいたままだった。
「遅くなってごめん、花を持ってきたよ。ほら、こんなに綺麗だろう?山奥に1輪だけ、咲いていたんだ。」
あぁ、どうしてこの人は、と人魚は心がいっぱいいっぱいになった。男に会えるうれしさが、かなしい気持ちを吹き飛ばしてくるのだ。人魚は舟へ身体を下ろして、男を抱きしめた。
「ごめんなさい、あなたと結ばれることはできない。これはあなたの夢なのよ、どうかわかって。私を忘れて。ぜんぶ、夢なのよ。」
人魚は泣く代わりに、わあああと声をあげた。気持ちばかり心につっかえることが、ひどく苦しかったのだ。
「夢のはずがないじゃないか、いや夢だとしても君を忘れるなんてできない。」
狼狽える男に、人魚はやりきれない気持ちになって、男に全てを話した。人魚にとっての、最後の足掻きてあり、男への甘えだった。
男は泣いた。人魚を抱きしめながら、声を上げて泣いた。人間は情に厚いものだな、などと冷静に考えて、人魚はもはや生きることなど諦めていた。
「私のことはぜんぶ、あなたの悪い夢だから。夜が明けて、私が消えたら覚めるから。忘れて、幸せになってね。」
夜が明けようとしていた。人魚は、想像もつかないくらいの年月を生きてきたなかでいちばん、うつくしい姿をしていた。

男は夢を見続けることを望んだ。人魚と居られるのなら、自分も海の塵となってもいいと思った。それしか考えられなかった。

男はロープを切るためのナイフで自分の喉を掻き切って、人魚を抱きしめたまま海へ飛び込んだ。

人魚は絶叫した。血がどくどくと海に流れ、あっという間に広がっていく。
人魚は人の死について知っていた。今までに崖から、自分を切り裂いて海に飛び込んだ人間を何人か見てきた。そうなった者は例外なく、冷たくなって腐っていくのだった。
人魚はいま自分がどうするべきなのかわからなかった。ただ男には生きてほしい、それだけがあ頭にあった。岩へ男を引き上げたとき、男は息をしていなかった。そのとき人魚には、自分の頬を伝って男の頬へと落ちるものがみえた。生まれてはじめて泣いたのだ。朝日が顔をだす少し前のことだった。

日が昇っても人魚の身体は焼けなかった。ナイフで喉を突き刺しても痛いけだった。
人魚はただ泣き続けた。男の身体に涙を落とし、いつしか男の身体は艶やかな真珠へと変わっていた。
それでも涙を流し続ける人魚に雨が降りかかって、強い風が海へと沈めた。人魚の涙は海へと溶けて、広い海をどこまでも漂った。
何年、何十年経ったか分からない。ようやく涙の枯れ果てた人魚は海のいちばん深いところにある牢獄に男を閉じ込めた。狂ってなどいない。それが人魚にできるいちばんの愛だったのだ。
海のどこかに漂う人魚の涙は、寿命として消費される度に真珠に変わった。真珠が愛に何をもたらすのか、それを知る者は誰もいなかった。


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