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思考実験してみた

こんにちは、イツキです。
題名どおり今日は思考実験に対する僕の考えを書いていこうかなと思います。
(もちろんこれは1個人の、しかも人間歴16年の未熟者の考えなので暖かい目でお願いします)



テセウスの船

テセウスの船の古くなったパーツをひとつづつ取り替えていく。最初は1枚の床板。そして帆、舵……いつしか全てのパーツが新しいものに変わっていた。それでもこの船は、本物のテセウスの船と言えるのか?

▶︎言えない。
要素がひとつも残っていないなら物体としては全くの別物である。「これがテセウスの船です」と紹介することはできない。
しかし概念的な価値は残っていると思う。例えば、ある人間の体が全くの別物に成り代わったとしても、思考回路や心がその人ならばその人のままだと認識する。思考や心は物理的でなくてもその人をはっきりとかたちづくることが出来る。そのかたちは概念であり人の認識によって捉えられる。同じように、テセウスの船を“概念”で見るなら、「これはテセウスの船だ」と信じる人がいるなら、実際には別物だとしてもその人の中でそれ相応の価値がつくのだろう。


トロッコ問題

暴走したトロッコの走る先には作業員が5人。避難も間に合いそうになく、このままだと轢かれてしまう。あなたは線路を切り替えるスイッチを見つけた。押せば5人は助かる。しかし、切り替えた線路の先にいる無関係の1人の人間が犠牲になる。
あなたはスイッチを押すか。

▶︎押さない。
人の生き死にに関わることは自分がどうこうしていいことでは無い気がする。もう運命に任せるしかないと思った。それに関係のない1人をわざわざ巻き込む訳にもいかない。……という理由もあるが、ここからは私の本音を、実に自己中心的で身勝手で冷酷なものの見方をしよう。
罪悪感についてだ。
5人死んで1人助かるとしても、この状況ではスイッチを押さない方がきっと罪悪感が少ない。
実際にこのような状況にあったとき、人を助けたという達成感より、人が死んだという罪悪感や絶望のほうが重いのではないか。人が死ぬことに焦点をむけてこの状況を見た時、スイッチを押した場合、1人“殺した”ということになり、押さなかった場合だと、5人“見殺し”にすることになる。総合的に見て、どちらがより罪悪感が生まれないか。私は後者だと考える。もちろん、自分が何もしなかったせいで、という罪悪感もあるだろうが、自分が何もしなかったことによる罪悪感は、自分がなにかしたことへの罪悪感よりも小さい。仕方がなかった、という考えに繋がりやすいからだ。
人の生死がかかってるのに自分の罪悪感の問題かよ。私はそんな人間だ。

臓器くじ

臓器提供が足りていない国で、健康な国民のなかから定期的にくじを行い臓器提供をする人を決める、「臓器くじ制度」が始まった。くじに当たれば拒否権は無く臓器提供をして死ぬことになるが、手術は必ず成功し、最低でも5人は助かる。
この制度は正しいか?

▶︎正しくない。
確かに、なんの罪もない人が病気になり苦しむことは不平等で、健康な人にも同じように試練を与えるのならそれはある意味平等と言えるのかもしれない。しかし、人権という面では不平等だろう。病気になったひとばかりが大切なのではない。当たった人間の意見を尊重しなければならないと思う。それに、提供された側も、人の犠牲の上でまで生きていたいと思うのか。臓器提供者の遺族は?お互いが探り合い、恨み合い憎しみ合う世の中になりそうな気がするのだ。
それなら死にたい人や、自己犠牲の上で人を助けたいという強い正義を持った者だけあつめて、くじを引けばいい。


スワンプマン

ある男が雷に打たれて死んだ。しかしどういった化学反応か、そこには姿かたち、思考や趣味や記憶まで同じの、もう1人の男がいた。もう1人の男は、自分は奇跡的に助かったのだと思い込んでいる。周りの人間もそれが新しく出来た別物だとは気づかない。もう1人の男は、その男と言えるのだろうか。

▶︎言える。
思考、記憶、感情、見た目がその男そのものだとすれば、“その男”として捉えることはできる。人はある人間について認識する時、容姿、言葉遣い、喋り方、仕草など様々なものでその人を認識する。そしてその男自身も、記憶から自分を「その男だ」と認識する。彼を偽物だと認識できる者がいないのならそれは本物と同じことなのではないか。
しかし彼を偽物と認識できる者が1人いる。そう、本物の男だ。もしも、死んだ本物の男と偽物の男が対面し、自分が本物だ、と言い争ったときは、偽物は偽物だということになってしまうのではないか。
その時私は、「同じ男が2人いる」としか言えない。
なぜなら区別するものが何も無いから。むしろ、本物の男自身も、本当に自分が本物なのか、分からなくなってしまうのではないか。どっちも本物、としか言いようがない。


現実を疑う思考実験

ここからは考えるではなく“疑う”思考実験をいくつか紹介して行こうと思います。

▶︎水槽の脳
ある天才科学者が、脳だけで生きていける特殊な溶液が入った水槽に、ある人物の脳を入れた。神経細胞を刺激するコンピューターと繋ぐことで、私たちと同じ現実世界を生きているように見せる。
もしかしたらあなたも、既に脳だけになって仮想世界を見せられているのかもしれない。

▶︎哲学的ゾンビ
哲学的ゾンビは、容姿、動作、感情など全て人間と同じように行うが、それは意思ではなくプログラムによるもの。哲学的ゾンビを見分ける術はない。
あなたの周りにいる人間が、哲学的ゾンビでないとどうして言い切れるのか。

▶︎世界五分前仮説
世界は五分前に始まったのかもしれないという仮説。あなたの生きてきた世界、経験、記憶、学んできた歴史は全て、五分前に、あたかも昔からあったかのようにつくられたものかもしれない。



おわりに

めちゃめちゃ面白かった。。。
なんか全然答えになってない感ありますが……
まあ今回は自分の答えではなく考えを出す回なので大目に見るということで。

今いる世界は仮想世界かもしれない。みんな哲学的ゾンビかもしれない。世界は五分前からはじまっていて、僕が15年生きてきた記憶すらつくりものかもしれない。
もう何も信じられなくなりました。




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