卒業制作日誌 (15)
もう9月が終わる。今年が始まってから一番、時間が過ぎるのが早い月だった。今月の10日の講評まではずっとバタバタしていたし、それ以降は脱力感なのか燃え尽き症候群なのかわからないけれど、急に頭の中が曇ったような感覚があって、つらさで心臓をバクバクさせながら、布団をかぶってやり過ごした。一切人と合わない8月から急に環境が変わったので疲れたのかもしれない。
先週は、文化庁のメディア芸術祭の展示に最終日ギリギリで駆け込んだ。受賞作品はどれも見応えがあったけれど、会場のお台場が本当に遠くて、電車が苦手な私にはきつい旅になった。ただ、私は電車は苦手でもゆりかもめだけはなぜか好きなので、乗れたのは嬉しかった。
メディア芸術祭は、最近になって、次年度の募集を取りやめるという発表があって、いつか賞が取れたらなあ〜とぼんやり夢を見ていた身にとっては、かなりショックだった。文化庁がやってるんだし終わることはまずないでしょ、と思っていたけれど、特に詳しい説明があるわけでもなくパタリと終わってしまった。揺るぎないものなんてないんだなと、現実を突きつけられた気がした。
私の周りでは、今年に入って、身近な人が二人亡くなっている。ああそうだ、私の周りにいる人たちはみんないつかはいなくなるんだよな。これからどんどん誰かを見送ることが増えていくのか。わかっていたつもりだったけれど、やはり「死」という人生のイベントは強烈な印象を残す。これも大人になることの一部なのかと思うと、なんとなく苦い気持ちになる。
メディア芸術祭にしろ、身近な人を失うことにしろ、何かが変わってしまうことに対して、今更ながら恐ろしいなと思ってしまう。どのみちそれを受け入れて生きていくしかないけれど、もちろん痛みだって伴うのだろう。正直怖い。
心が、変化を受け入れられていない気がする。メディア芸術祭や身近な人の死だけではなくて、もっと些細な出来事とか情報に耐えられていない。風に吹かれてどんどん空に登っていく凧のように、自分で自分を掴みきれず、外的なものに対してされるがままになっているような、そんな怖さがある。
先日は、SNSで好きなアニメの酷評を目撃してしまい、弱った心に大やけどを負った。自分でもこんなことを引きずるのはおかしいと思うのだが、あの酷評を思い出すたびドキドキしてきて、塞ぎ込みたくなった。ネットで「好きな作品 酷評」とか調べてみても出てくるのは「人の好みはそれぞれなんだから、気にしないで」という意見ばかりで、受け入れられない。
ただでさえ心が弱っているのに、インターネットで傷を作って、インターネットに救いを求めてしまっている。これはまずいなあと思いながらも、落ち込むのがやめられない。相変わらず頭の中は、ものを詰め込みすぎた引き出しのように、灰色の何かでぎっしり詰まっていてうまく回らない。そうこうしているうちに登校日になり、心臓をバクバクさせながら、学校に続く坂道を一歩一歩踏み締めるように登った。
授業のあとに希望者だけ面談をすることになり、あまりのつらさに耐えかねて先生のアドバイスを聞いてみることにした。悩みを吐き出して思ったのは、大人に話を聞いてもらうだけでも安心感があるということだった。絶対にこの人なら話を聞いてもらえると思うだけで、ほっとするというか、そんなに身構えずに生きていても大丈夫かも、という希望が持てる気がする。
アドバイスをもとに、いくつか、今後の過ごし方を決めた。
①スマホを半日見ない日を作る。1日だとさすがに不安になるので、半日でOK。触れる情報がとても多過ぎるので、余計なインプットを減らす。
②自然に触れる。できれば、旅をする。今のままの状態だと、講評や授業やスマホからたくさんのものを受け取り過ぎているので、そこから引き算をするように、歩いて発散させる。
③就活は後回しにしてもOK。今のまま就活に行っても、企業側も受け入れるのが難しいだろうし、就活で心が削られてしまっては意味がないので。
特に、自然に触れることは、重要になってくると思う。最近私は、学校の周囲が思った以上に人口密度が高いことに気がついてしまった。一見、私の地元のように、人よりカルガモの方が多いような顔をしていながら、実は土地という土地全てに人が住んでいる街…朝になれば、隠れていた人間がぞろぞろと道路に這い出してくる。散歩をしていても気が抜けない。
とりあえず、大きな川とか、海でだらだらしたいと思う。自分に何が足りていないかがわかったので、一刻も早く癒しを求めに行きたい。何にもせずにぼーっと過ごしたい。具体的に計画を決めたら、ちょっと楽しみになってきた。はやく明日にならないかな。
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