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世界一心が透き通った友人の誕生日(2/10)

予備校で出会ったギフテッドの友人


今日(2/10)は私の友人の誕生日。(おめでとう!!!)
彼女の誕生日は、毎年自分の誕生日よりも迎えられる事が嬉しく思える日だ。

彼女とは浪人生の時に予備校で出会った。彼女は高IQで5言語以上話す事ができ、一つの言語を2週間で習得できるギフテッドだった。

だがそんなことは当時の私は知らなかったので「グミ食べてるの?女子力高いねえ」と意味のわからない絡み方をした事が最初だった事を覚えている。

浪人生ながらも彼女と過ごした日々は楽しかった。頭の回転の速さを感じる事が多々あり、突然のフリにも誰よりも面白い返しをしてくれる、今思えばここにIQの高さを見出す事ができたのだが、当時は肉好きな性格の良い友人としか思っていなかった。

私は推薦で10月頃に大学が決まったので(海外大の受験勉強は続いていたけど)、実際半年で予備校を辞めることになった。
普通の浪人生だったら早々と受験を終わらせる同期に対して、「なんであいつだけ」と僻み・嫌悪の感情を抱くのではないかと思い申し訳なくなったので、私は何も言わないで彼女との関係性を静かにフェードアウトすることを考えていた。

しかし彼女は私の事を追いかけてきてくれて、僻み・嫌悪の感情一つ見せずに自分の事のように喜んでくれた事を覚えている。
それどころかわざわざ私におめでとう&これまで楽しかったという内容の手紙を書いてくれたり、1から芋をこねてスイートポテトまで作って祝ってくれた思い出がある。

今思えば彼女は私の小さな努力を見て「こういう人に成功してほしい!」って毎度褒めてくれたり、彼女は例え苦境であろうと人を「僻む」「妬む」こう言った感情を一切見せない心の美しさがあった。単に彼女の元々の能力及びIQが高いから人を羨ましがる事がない、というよりは本質的に人を蹴落として自分が勝ちたいとか、そういった邪道な精神がまるでないんだろうなと思う。私は当時基本的に性悪説を推奨していて(笑)人には裏切られてなんぼと思っていたけど、「この人なら信じていいかな」と今までの中で一番思えるような素敵な人だった。

私はもし大学にどこも受からなければ(祖母の)実家の茨城の肉屋をつげと親に恐喝されていた限界浪人生だったのだが、彼女の明るさや面白さに精神的に救われて大学受験を終える事ができたので、感謝すると同時に彼女がいたから今があるとも日々感じている。(別に肉屋で働く事が悪いという意味合いではないです、肉大好きだし。)


テクノロジーの凄さに気付かされた事


大学1年生の頃に彼女はロボットを作るインターンに参加し始めた。なんでまたロボット?と当時私は感じていたが、これがテクノロジーの凄さを私自身が知ったきっかけでもある。
ロボットの中でも「重度障害者が遠隔でロボットを操作できる事で、社会参加が可能になる」と言ったコンセプトのものだった。
重度障害者の数多くは自分が身動きが取れないことに対する精神的な苦しさや、家族に医療費を払ってもらう申し訳なさから安楽死を選択する割合が高いのが現状だそうだが、
そのロボットを使うことによって「初めて仕事をもらいました!」と嬉しそうにいう障害を持つ方の声を聞いて、ロボットは「人の生きがいを生成している」ことがわかり心底意義を感じた。
ロボットが重度障害者の方の手となり足となっているところを見て、以前本で「テクノロジーには身体拡張の役割がある」と読んだことがある事を思い出した。

また彼女は「早く重度障害者の人を救いたい、ロボットを当事者の方に届けたい」と徹夜でロボット開発をしていた。
彼女はプログラミング未経験の状態からものすごい勢いで技術力をつけて自身のプロダクト開発にも取り組んでいて大変驚いたのだが、私は彼女と出会ってから1年以上経ったこの段階で彼女がギフテッドである事を知った。

「もし自分がIQが高くていわゆる下駄を履いている状態ならば、重度障害者の人の高い壁を壊したい。その壁の向こう側の景色を”希望”と呼ぶと思う」

と本人が言っていた事を今でも覚えている。

彼女は自分のポテンシャル・時間を今生きることの苦しい人のために使おうと全力でありその姿に胸を打たれた。

私は環境情報学部に在籍しているにも関わらず、情報系の授業があまり好きではなくプログラミングも他の人の回答を真似したりインターネットで調べたコードを提出しようとする底辺大学生だったが、彼女が一生懸命ロボットを作る様子やテクノロジーの凄さに感銘を受けて真面目にプログラミングを勉強しようと学習を始め、最初からいっぺんに5言語くらい取り組んだ。私がテクノロジーを介して何か新しいものを作りたいと考え始めたのも彼女の影響である。(今はアプリとかAIとかソフト面に目を向けてる)

「生まれ方ではなく生き方をデザインする時代」に


友人が教育機関で講演をすることになり、私にも一緒にやろうと誘ってくれた事があった。これが大学1年の秋。

彼女と何をどう話すか考える為にケンタッキーに集まり話を進めた(思えばケンタッキーの凄さに気付かされたのも彼女の影響)(私はケンタッキーに洗脳されて一時期zoomの背景をケンタッキーにしていたり、ケンタッキーを実家とほざいていたいた時期もあった)

講演の内容に関して話している上で、彼女と「生まれ方ではなく生き方をデザインする時代」にしたいという話になった。
これは障害や家庭環境などの先天的な「生まれ方」に囚われず、やりたい事を自己実現をする・生き方を自らデザインできる、そんな社会を作りたいといった内容だった。

彼女はおそらく能力的には恵まれているのだろうが、きっと良いことばかりではなく「人と違う」ことに時に苦しみを覚える瞬間もあったのかなと思う。

「人と違う」生まれの時に周りとわかり合う事ができない→疎外感を感じることをあるのが人間かと感じる。私は彼女ではないし別に高IQでもないし(むしろI Q測ったら低かった汗)本人の感覚をわかり切れるわけではないが、ギフテッドのドキュメンタリーとかをテレビで見る限り当事者にしか分からない辛さが存在する。
きっと彼女はそういった人と違う一面もあるからこそ、「苦しい人を救いたい」という優しさを抱いているのかなと思った。

また「何がやりたいか分からなくなった時」どうすれば良いかという話になった際に、
「どんな人といたいか」をベースに物事を考えれば良いのではないかと彼女は教えてくれた。

私は割と興味が多岐に渡っていて「何がやりたいか分からなくなる」事が自分自身結構あるが、この考え方には説得させられた。

私自身これまで睡眠障害や軽度のADHDで思うようにいかなくなった事も多かった為、彼女と話していた「生まれ方ではなく生き方をデザインする時代」にしていきたいには激しく共感している、を超えて同じビジョンだった。
そして私は「どんな人といたいか」をベースに物事を考えた時に真っ先に彼女を思い浮かべる。例え自分自身が障害で体調不良になった事があろうとも、浪人しようとも、その全てがあってあの予備校の場所にいて彼女と出会えているので、紆余曲折も無駄ではないのだと希望が持てる。私は自身の過去を「これで良かったな」と肯定できるのは、彼女との出会いや講演含め色々な経験を彼女と共にできたからであると言える。

そして講演は盛況に終わった。聴講していた人から「彼女の周りには希望が歩いている」と言われるほど、話を聞いて希望を持ってくれた人は多かった。

彼女は他者の未来や希望を作るプレイヤーだと思う。その彼女の描く未来に、自分もいれたら良いなといつも思っている。


結論彼女と食べる肉が一番美味しい


私は浪人時代まで際立って肉が好きというわけではなかったが、彼女の影響で肉が好きになった。彼女は一時期毎日焼肉に行こうと誘ってきた時期があって「この人大丈夫かな、そんなに肉が食べたいのか」と少し心配になった事もあったけど、彼女とご飯を食べている時はすごく楽しかった。

彼女の影響でケンタッキーってすごく美味しいんだと知り、私は一人でケンタッキーにノコノコ出向いた事もあったけど、一人で食べるケンタッキーフライドチキンにはそこまで感動を覚えなかった
彼女と食べると肉が美味しく感じるミートマジック(肉の魔法)にかけられているんだとここで気づく。

私は彼女の毎日焼肉に行こうと人に誘う無邪気さや、人の成功を自分のことみたいに喜べる心の美しさ、苦しい人を救いたいと睡眠時間を削ってまでも頑張れる気持ちの強さや没頭力、そしてクリエイティビティの全てに憧れている。そして彼女からもらった感情も沢山ある。

私はこの先どんどん進化していく彼女がどんな風に変わっていくのか、また人にどんな影響を与えていくのかすごくワクワクしながら、「良い一年にしてね」じゃなく「良い一年にしようね」と思うと同時に、今年も彼女と喜びや肉食べる時間を共有できたら本当に自分にとっても幸せだなあと思う。
いつもありがとう。

(2月9日 にくの日に執筆した記事より)


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