物事の境目
友人に借りたマトリックス3部作を観た。
始まりがあれば終わりがある。
生まれてから死ぬまでの間を僕らは生きている。
昼と夜、光と闇、女と男、生と死、表と裏…
言葉にすれば別物だが、その境界はどこにあるのか。
山と空、境界があるようで、よく見ればハッキリとした境界線はない。
空と雲もそうだ。
自分と他人。これも。
どこまでが自分でどこまでが他人か。
肉体をその定義とすれば明白か。でも子どもが泣いていたら我が事のように苦しい。
人は肉体だけではない。マッサージをしているとよくわかる。まずコリに触れる。そこから、じーっと触れているとコリの認識、つまり境界がなくなっていく。
相手の受けている感じがありありと僕に伝わってくる。相手と同化していくのだ。
五官は、外を認識する器官であり、自他を区別する。それはつまり、自と他を切り分けることだ。
そうやって、本当は繋がっているものを分けて認識する。
健康とは、体に違和感はない。つまり体がすべて繋がり一つの状態だ。
病気とは、どこかに違和感を感じている。胃が…肩が…腰が…一つの体であるはずが分離している。
指圧をすると、圧点から響きが各部に届き、繋がっているんですねと言われる。
体は一つ繋がっている。離れているところはない。当たり前が当たり前でなくなる。
始まりがあれば終わりがある。
時を分けて、その間を生きる。
そう認識しているのが生まれては死ぬ僕らの人生だ。
しかし、本当の姿はちがうのではないか。
始まりもなく終わりもない。
全てがある世界。
そんな世界に、僕らは生きている。
予後が日にち単位と言われてる患者さん。
マッサージをしていると生と死の間を感じる。
その生と死をつなぐのが僕らの仕事。
この分離の世界に生きていると、どちらかに偏る。
そこに同化すると他が生まれる。
しかし、間にあるのが人間だ。
生と死、光と闇、神と人、間に立ち、両方を俯瞰し手を繋いだとき、本来の姿が見えてくる。その役目が人間だ。そして、その分離感を生み出したのも人間だ。
そのことを忘れ自他分離の戦いの中で苦しむ。
でも、それはプロセスである。
愛を体感するための。
本来である一体の姿を愛という。
汝の敵を愛せよ。
敵は、自分が隠した自分の姿である。
そのままの敵を素敵という。
自分の中の戦いを終わらせて愛に生きよう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?