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金魚鉢 [創作短編]

 夏も終わりかけのくせに、太陽が一丁前に夏を主張してくる八月末日。暑いのに狭いし助産師たちはいっぱいいるし陣痛もキツい。そんな息の詰まった苦しい分娩室で**は生まれた。

「おめでとうございます、元気な男の子ですよ!」

「お母さん頑張ったね、おめでとう!」

 助産師たちはやんやと労いの言葉や祝福の言葉を口にしながら、私から生まれ落ちた**を別室へと連れて行った。母になった実感はなく、ただ、胎はらの中にいた、前に付き合っていた手に大きなまめのある男の残していった異物が、やっとすっぽりと抜け出た感覚だけはあった。

 母になった自覚の芽生えないまま、私は**を育てるノウハウを助産師たちに教えられた。やるべきこと全てがピンとこないままだったからか、母乳の出も悪かった。私は、母になるには未熟すぎた。



 金魚すくいの金魚がすぐ死ぬのはなぜだろう。ずっと薄っぺらな紙に追い回されて疲れているから? 露店まで車でガタゴトと運ばれてきているから? 餌をもらっていないから? もともと売れ残りの弱い個体ばかりが集められているから? それとも――



 プラスチックの湯桶のような容器に寝ている**は、その目の細さだったり、毛量の薄さだとかが、ゴツゴツとした手の土方の男に似ていた。


「ただいまあ」

 鍵の開く音と上機嫌な大声が、通販番組の甲高いノイズを遮る。

「……おかえり」

 酒臭い彼に呆れながらも、ソファとは名ばかりの長座椅子から身体を起こす。しかし彼は、私の眠たい態度が気に入らなかったのか、つい今まで上機嫌だった雰囲気を一変させた。

「せっかく帰ってきてやったのに、なんなんだお前は」

 その言葉にハッとして彼を見上げたときにはもう遅く、朝日の昇りきった頃には、痣だらけの私と、ポーチ一つにおさまる荷物が、彼のボロいワンルームから弾き出されていた。

 けれど、その頃には、あの人が私の中に吐き出した種はすでに私の血液を養分にすくすくと育ちつつあった。


 あの土方の男は元気だろうか。今となっては彼の顔を見ても「愛おしい」と思わないだろう。だから、だったのだろうか。それとも、母になるための大事な何かも一緒に産み落としてしまって、それをあの姦しい助産師たちがどこかへとやってしまったのだろうか。

 私は、**の顔をまじまじと眺めながらも、**を「愛おしい」とは思えなかった。



 金魚すくいの金魚がすぐ死ぬのはなぜだろう。昔、忙しかったお父さんが一度だけ夏祭りに連れて行ってくれたときに聞いた、幼い私の素朴な質問。それは小学校の友達が以前「金魚がすぐ死んじゃった」と言っていたのを思い出して不意に口をついた。お父さんは賢い人だったから、私からの質問を予測していたかのように淡々と答えた。よくある子供の「なんで」「どうして」の一つだったはずなのに、そのときの答えは比較的鮮やかに覚えている。

「あの水槽に入れられているのはまだ幼い金魚ばかりらしいからね」

「薄いビニールで外気温にさらされる水の中、窒息しそうになりながら人間の手に揺られ、やっと解放されたと思ったら慣れない環境に放たれる――」

「幼い子供は、それは耐えられずに死んでしまうよ」

「だから金魚すくいの金魚は、大抵が、秋を迎えられずに死んでしまう」

 そう言った父の目は、露店のライトをきらりと受けて、不自然なくらいギラギラと光っていた。そんな記憶がある。

「梓あずさは金魚を飼うのが下手かもしれないね」

「僕たち夫婦が、普通の幸せな家庭を築けなかったばかりに……」

「だから父さんも母さんも、梓に金魚すくいはさせないんだよ」

 あのとき、父は恐ろしいほどの視線を私に注いでいた。あれほど父にじっとみられたのは最初で最後だったと、確信めくほどに。



 私が産婦人科からやっと退院するっていうときに、彼氏が迎えにきてくれた。そのときの私は、やっと彼氏に会えたんだという喜びで、自分から生まれ落ちた**の存在をすっかり忘れていた。黒い皮の匂いが濃く残る白いボルボに乗り込んで、少しだけマックに立ち寄った。ほんの三十分だけ。彼氏に言われるがまま、**は後部座席に横たわらせておいたまま。

 彼氏の白いボルボが私の住む小汚いマンションの前までやってきたとき、ふと後部座席の**を思い出した。薄手のタオルケットに大切そうに包まれた**は、腹を天に向けながら、不気味なほど大人しくそこにいた。

 その日は、秋口の九月とは思えないほど暑い日だった。



 あのとき私は、きっと警告されていたんだ。お父さんは言っていたんだ、金魚すくいの金魚は、すくった人間の身勝手で殺されるんだと。そして見透かしていたんだ、私という人間はいつか身勝手に、金魚を殺すと。


慶應義塾大学Pen Club 2022年度 秋部誌寄稿作品

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