続:こんな風にも「好き」は仕事になったりする
2019年に、同じタイトルで記事を書きました。(文章が青い…恥ずかしい…)
https://note.com/hrkm_1228/n/n332d4c5a9fe2
そんな仕事に区切りをつけるタイミングが来て、私にとって大切な5年間を残すために、もう一度、今の私から見えている居場所づくり・ユースワークについて書くことにします。
■子ども支援学との出会い
当時決して意識の高い学生ではなかった頃、それでも私の中に妙にはっきり残ったこの言葉。この言葉と出会ったのが、大学の子ども支援学の講義だった。
そんな言葉に惹かれた理由は、明確で、私自身、ずっと困った子にならないように四方八方を警戒しながらなんとか生きてきて、でも本当はずっと独りで困っていて、そんな生きづらかった中高生時代に、こんな眼差しと出会えていたら、なにか違う未来があったかもしれないと感じたから。(当時ここまで言語化されてなかったけど)
ラジオに逃げ場を求めて、毎晩足を抱えて、救われたり、救われなかったり。そんな自分だからこそできる、なにか自分らしさみたいなものを探して、この領域に踏み込んだ、そんな部分もあったと思う。
■新米ユースワーカーの奮闘記
そんなずっと頭の片隅にあった子ども支援を仕事にするぞ、となってカタリバに入職した頃の気持ちを思い出すと、ずっとやりたかったことを仕事にできるわくわくと、学びへの貪欲さと、でもそんなポジティブな気持ちと同じくらい、もしくはそれ以上にモヤモヤした日々だった。
相手に嫌われることも、異質性やもめごとも、あまり得意じゃない性格に起因して「この場面でこんな風に接して平気かな」そんな風に子どもたちの顔色をうかがっていたりもしたし、
ストレングスファインダー1位「共感性」をいかんなく発揮して、彼らの中にある孤独感や不安・焦燥みたいなものをいつだって感じ取っていたし、それが良く働くときも、自分を苦しくさせるときもあった。
気を抜くと治安維持で終わる1日や、傾聴を求めるメンヘラのオアシスと化し(今思えば類友である笑)、滔々ともう5回目とも思われる同じ内容の恋愛相談を聞き続けたり、最初は目新しく必死だったものの、次第に「これでいいのか」「わたしはなにかできているのか」そんな気持ちになったことも少なくなかった。
それでも居場所、とか、対話、とかそういうものの価値を信じたくて、メンヘラ女子たちに対話を仕掛けてみたり、コーチングスクールに通ってみたり、
関係構築のために片っ端から少年アニメ・マンガを見漁ったり、ポケカをやったり、マリカーやり込んだり、ギャルに合わせてメイクやネイルや髪型を武装して仲間に入れてもらったり。
ちなみに退職を一番実感している場面は、「もう誰にもネタバレされないから、月曜にジャンプ本誌を読まなくても良くなったこと」だったりする。
■愛すべき困った子たち
そんな自分が、最終的に「私がやらなくて誰がやる」みたいなテンションでユースワークするようになったその変化になにがあったか振り返ると、結局は愛すべきはちゃめちゃな子どもたちの存在だったなと思う。
詳細を書くことはしないけども、施設のルールは守らないし、酒・たばこの気配はする、感情に任せて暴れまわる、etc・・・
「お前の人生なんだから好きにせい私はしらん!」なんて思ったことも数千回あったし、掴み合いもした。
でも、気がついたら、みんな大人になっていって、やりたいことを言葉にしたり、誰かに憧れたり、そのために苦手なことに向き合ったり、上手に人と関われるようになっていった。
中高生、すごい。
そんな子たちの成長、変化を通して、
どんな子も、必要な環境が整ったり、必要なリソースと繋がることができれば、自分の力で、自分の人生を生きていける
そんなことを、本当に信じられるようになっていった。
■可能性を信じるということ
もうひとつ印象深かったこと。当時問題児で手に負えず、みんなで悩んでいた子が、役割を与えた瞬間にとんでもなく私に懐いて、私企画するイベントで完璧なタイムマネジメントとフォローをやりきったこと。(スタッフ顔負けのいい動きだった)
「子どもたちは、大人が自分のことをどう見ているか感じ取ってる」
「"困った子"とみてたら問題児のままだし、根っこの部分を信じて、その子の良いところを信じて関わったら、ポジティブな面を見せてくれる」
それまで直感的に感じていたこんなことが確信じみたのがこの出来事。
表面的な関わりではなくて、この「目の前の人の可能性を信じる」みたいな部分をぶらさない、という自分の中でも在りたい姿のような、覚悟のような、そんなものとして、強固な軸になって、後々の自分を支えてくれていったように思う。
■誰よりも未来を信じられるようになったのは自分だった
この子のキラリと光るところはどこだろう
どんな場でそれが開花するだろう
どんな風に接したら、生徒自身がそれに気付けるだろう
そんなふうに現場を見ながら、生徒やスタッフが自分の仕掛けた場で開花していくのを見るのが、面白くて楽しくて、仕方なかったなあ。休憩中に子どもたちにたかられて、「私は今休憩中だ!ひとりにしてくれ!」みたいな気持ちに幾度となくなっていたけれども、子どもたちの日常に伴走することは、きっと、私の好きなことでした。
そんなことを続けていくうちに、次第に子どもたちに向けていたまなざしを自分に向けられるようになって、これまでの人生で「できるか、できないか」を軸で選択していたものが、「やりたいこと=たぶんきっとできる!というかやる!」と思えるようになったのが思わぬ副産物。
「どんな環境に生まれ育っても、未来をつくりだす力を育める社会」をビジョンとして長い年月仕事をさせてもらってきて、一番、未来を創れると信じられるようになったのは自分だったのかもしれないなと思ったり。
そんな自分の変化の先で、もっといろんな年代、いろんな組織、いろんな人に伴走できる力をつけたい、そんな気持ちが膨らんで、それが叶えられるご縁もいただけたので、一度ユースワークの現場を離れる決断をしました。
■最後の約束
最終日に時間をもらって、そんなたくさんのギフトをくれた子どもたちの前で話しました。
私をユースワーカーにしてくれた、生意気で危なっかしくて、でも可愛い彼ら彼女らに送る最後の言葉は、思い出話じゃなくて、お守りになるような何かを残したくて、ひさびさにスケッチブックに、生身の感情を落としました。うまく届いたかな、届いていたらいいな。
外側の基準や、人目を気にするんじゃなくて、自分がどうなったら幸せか、まずは自分が一番理解して、自分が一番叶える、そんなふうに自分を大切にしてほしくて、最後のメッセージを言葉にしました。
そしてこれは、言ったからには、の自分に対しての約束。
彼ら彼女らに言ったんだから、まずは自分がその体現者であれるこれからを、このあたたかい場所を離れても、彼らの存在がなくても、作っていけますように。
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