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真面目に生きる

僕が子どもたちに折に触れて言ってることがある。

「真面目に生きなさい」

「真面目」って言葉は、現代社会ではどちらかというとマイナスのイメージが有る言葉だと思う。僕も高校生くらいまでは、そう感じていた。この言葉のイメージが180度転回したのは、夏目漱石の「虞美人草」という作品を手に取ってからだ。夏目漱石は「吾輩は猫である」「坊っちゃん」などの作品を書き記し、明治時代最大の文豪である。
ただ、中学時代に「吾輩は猫である」や「坊っちゃん」を読んで、正直、この作家のどこが凄いのか、全くわからなかった。大学受験のときに予備校の先生が「夏目漱石の文章は名文が多く、非常に勉強になる」と言っていた記憶があるが、本当に頭の片隅に残っているだけだった。

大学受験も終わり、大学生となり遅まきながら、ここで初めて「こころ」を読んだ。この作品への衝撃はまた別の機会で語るとして、これに衝撃を受けた僕が次に手にしたのが「虞美人草」であった。
ざっと、あらすじを引用してみる。

美しく聡明だが、我が強く、徳義心に欠ける藤尾には、亡き父が決めた許嫁・宗近がいた。しかし藤尾は宗近ではなく、天皇陛下から銀時計を下賜されるほどの俊才で詩人の小野に心を寄せていた。京都の恩師の娘で清楚な小夜子という許嫁がありながら、藤尾に惹かれる小野。藤尾の異母兄・甲野を思う宗近の妹・糸子。複雑に絡む6人の思いが錯綜するなか、小野が出した答えとは……。漱石文学の転換点となる初の悲劇作品。

引用元:角川文庫

この小説の終盤、主人公の小野に対し宗近くんが語る場面に「真面目」という言葉が非常にクローズアップされて出てくる。そしてこれこそが、現在の自分の人生に対する指針の一つとなっている。

真面目になれるほど、自信力の出ることはない。真面目になれるほど、腰が据わる事はない。真面目になれるほど、精神の存在を自覚することはない。天地の前に自分が厳存しているという観念は、真面目になって始めて得られる自覚だ。
真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。やっつける意味だよ。やっつけなくちゃいられない意味だよ。人間全体が活動する意味だよ。口が巧者に働いたり、手が小器用に働いたりするのは、いくら働いたって真面目じゃない。頭の中を遺憾なく世の中へたたきつけて始めて真面目になった気持ちになる。安心する。

夏目漱石「虞美人草」より

真面目というのはね。僕に言わせると、つまり実行の二字に帰着するのだ。口だけ真面目になるのは、口だけが真面目になるので、人間が真面目になったんじゃない。君という一個の人間が真面目になったと主張するなら、主張するだけの証拠を実地に見せなけりゃ、何にもならない。

夏目漱石「虞美人草」より

世間の流れに乗って、大学を受験し、それなりの大学に入学し、それなりに勉強して、何となく生きてきた自分に対して、言われた言葉かと思った。
真面目って漢字で「真の面目」って書くんだよね。面目って体面のこと。本当の体面ってこと。

世間を騙すことができても、全身全霊で生きていないことを自分に対して騙すことはできない。
自分自身を騙すことができないのだから、いつまでも自分に自信がない、不安がつきまとう。

この不安を払拭するには、人は全霊で人生を真面目に生きていくしかない。
ホント遅まきながら、それに気づいた。大学生の時だ。
また、文章を通じて、先人の凄さを感じるという経験を若い時期にできたのは本当に僥倖だった。当時、「夏目漱石? 坊っちゃんを書いた人でしょ」、くらいの認識だったし。

以来、僕の座右の銘の一つが「真面目に生きる」だ。

一番始めに書いたように、子どもたちに折に触れて、この話を伝えている。中学生の息子は右から左に流しているが、高校生のお姉ちゃんには少し響いているみたい。こういうのは「時期」というものがあるからね。

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