見出し画像

最愛の人へ

二年前、noteを開設した理由はこの人のことを書き留めておきたいと思ったからでした。でも、大事に大事にあたためているうちに、月日は経ち、状況もどんどん変わっていってしまって。今回ようやくちゃんと腰を据えて書くことができました。これはたった一人の愛する人へのラブレターです。


「おばあちゃんはきょうちくとうの花がだいきらいなんだよ。」

毎年やってくる夏休みの課題。中でも最大にして最強の敵は読書感想文だった。当時、文字を書くことも読むことも好きではなく、むしろ嫌いだった私が、こんな風に読書感想文の最初の一行をしっかりと覚えているのには理由がある。

夾竹桃は夏のちょうどお盆前くらいに満開を迎える紅色の花のことだ。そして祖母の出身、広島市の市の花でもある。齢85歳、広島市出身の祖母。彼女は原爆の被爆者だ。その話はまた別の機会にするとして、そんな祖母がひょんなことから愛知県で生まれ育った祖父と出会う。兄妹が病弱で、入れ替わり立ち替わり入院を繰り返していたこともあり、私は幼少期からおじいちゃんおばあちゃんに預けられることが多かった。それも一日や二日ではなく、何ヶ月単位だった。

祖父と祖母はまさにベストカップルだった。無口で厳しいけれど誰よりも孫の未来を気にかけてくれる元教師の祖父と、いつもにこにこおだやか、でもここぞという時は大胆な肝の座った元看護師の祖母。私はそんな二人が昔から大好きだった。

毎年やってくる夏休みの読書感想文。実は小学四年生までの四年間。ゴーストライターがいた。やだ、めんどくさい、遊びたい、の一点張りの私に代わって本を読み書いてくれていたのは元教師の祖父だった。つまり、小学四年生の時の読書感想文。出だしの一文は、祖母の最愛の人、祖父が祖母を想い書いた短いラブレターだった。

それから月日は流れ、14歳の誕生日を迎えてすぐのこと。祖父が突然病に倒れた。そして、ちょうど一年が過ぎた寒いバレンタインの日。祖父は他界した。それからの私の毎日は今でも思い出したくないくらい真っ暗だった。中学受験を経てようやく自由になれる!と喜んだのも束の間、中高一貫女子校という環境になじめず悪戦苦闘の日々。そのことを家族に悟られまいと毎日必死に学校へ通っていた。祖父が亡くなってからはより一層迷惑をかけられない、しっかり生きなくてはと踏ん張っていた。そのかわり授業終わりのチャイムが鳴れば一目散に帰宅して、部屋にこもってギターばかり弾いた。本当に意識が飛ぶまで弾いていた。孤独だった。生きることも人と関わることも怖かった。辛かった。何をしていても、何を考えても、何を頑張っても祖父(一番の味方で一番の理解者)がいない事実は変えることができない。ぽっかり空いた心は冷たい風にさらされるばかりだった。

中学卒業も、大学卒業も、結婚も。誰よりも祖父にみてほしかった。自分は自分のこれからを当たり前に祖父と共有してゆく心持ちでいた。心の中にあった大きな松明が一瞬で吹き消されたみたいだった。

祖父を亡くして初めての春。祖母からの誘いで祖母と二人で京都まで桜をみにゆくことになった。その年の桜は哀しいほど美しく咲き誇っていたことを今でも鮮明に覚えている。

京都から帰って数日後のある日。祖母の自宅で数冊のフォトアルバムを見つけた。アルバムには京都で私が撮った写真が丁寧にファイリングされてあった。嬉しいなぁという気持ちでページをめくっていき、最後のページにたどり着いたとき、裏表紙に油性マジックで言葉がかかれていることに気づいた。よく見るとそれは俳句だった。そしてそこには一句、「悲しみを 桜花(はな)はいやさず 散りいそぐ」と書かれていた。それは紛れもなく祖母の字で、祖母の書いた俳句だった。それをみつけたとき、いつも笑顔でおだやかな祖母の悲しみ、本当の心、奥深くの闇に触れてしまった気がして、みてはいけないものをみてしまった気がして、慌ててアルバムを閉じた。祖母も私と同じように、いやそれ以上に祖父の死を受け入れられずにいたのだ、とそのときわたしはようやく彼女の悲しみの深さを知った。

それから数年が経った去年の春、祖母が本を出版した。それは突然、本人からさらり告げられた。よく話を聞けば、俳句仲間と共に自費出版したらしい。

「二度あることは三度ある」というタイトルがつけられた祖母の文章には、丁寧な言葉で綴られた祖母の半生が綴られた文章と、美しくて儚くも強い俳句が添えられていた。

原爆のこと、伊勢湾台風のこと、悪性リンパ腫のこと。赤裸々に綴られた祖母の言葉と俳句は、私に、そして祖母の娘である母には受け止めきれられないほどまっすぐで、読み終えたあと母と二人で泣いた。

しかし、こういう形で祖母が自分の半生と俳句を公開したことを私はとても嬉しく思った。いつもおだやかでにこにこ笑顔の祖母も、自分と同じように悲しみや苦悩を抱くこと、そしてそれを自分と同じように言葉を紡ぎ、言葉をリズムにのせて発信し昇華していること。遺伝子だとか、血液型だとか、そういうものは結果論でしかない。でも少しそれを信じてみたくなった。間違いなく私はおばあちゃんの孫だ、と確信した。それはわたしにとってなによりの光で、救いだ。

「二度あることは三度ある」どころか、これ以上にないほどの苦しみを五度くらい味わっている祖母。でも自分をかわいそうだとか報われないだとかネガティブな発言を聞いたことは一度もない。むしろ「いつもありがとうね」とか「ありがたいね」とか感謝をたくさん口にする人だ。そんな祖母が昔から好きだ。(そしてそんな祖母を選んだ祖父はさすがだと思う。)

祖母の人生をみて、そして彼女が一生懸命書いた本と俳句を読んで、私はちょっぴり救われた。これからの人生、散々打ちのめされて、息ができなくなるほど泣いたら、そのあとは。強く優しくなって、最期には「幸せな人生だ」と朗らかに笑える日がくるのかなぁなんて思えたから。

私はまだ祖母のように強くはないけれど、きっと脈々と流れるDNAがあるから大丈夫だと思う。だからこれからも堂々と歌う、書く、表現する。そして感謝はちゃんと口にして、幸せは自分の手でかき集めたい。


----------------以下、2022年8月加筆----------------

2022年8月24日。
祖母は静かに息をひきとった。

最後まで本当に美しく気高かった。わたしにはもったいないくらい素敵なおばあちゃんだった。今はどれだけ言葉を尽くしてもありがとう、しか出てこない。言葉が足りない。代わりに涙は次から次へとでてくる。パソコンの画面を見つめ、泣きながらタイプしている姿は非常に滑稽だ。十三年前、祖父が他界した時、世界は絶望に満ちていた。だけど、今は世界のうつくしさを知っているし、強く生きよう、と、絶望に負けたくない、と思える強さも持ち合わせている。だからどうか二人には安心して欲しい。またベストカップルが揃って、わたしに笑いかけてくれるその日まで。わたしはもうすこしこの世界でいのちを燃やす。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?