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目が覚めると世界が半分になった《前編》


2018年も終わりに近づく、12月28日。

仕事前にふらっと訪れたかかりつけの眼科で医師が深刻な面持ちでこういった。

「今すぐ大きな病院へ行ってください。今日中、いや、あと30分以内に。すぐ手術してください。紹介状急いで渡しますから。」

二週間ほど前から見え辛かった左眼。仕事の疲れか気のせいでしょと思っていた我が左眼はそのとき網膜剥離を起こしていた。

かかりつけ医にそう告げられ有無も言わさず大きな大学病院に運ばれた。まさに【超特急】の対応で問診を受け、車椅子に乗せられ、採血やらレントゲンやら諸々の検査を受け、気づいた頃には手術台にいた。

麻酔が効いてぼーっとする頭。その状況でさえ私はまだ自分の身体のことより仕事のことが気がかりだった。今日の仕事どうしようか、休んでしまった、大事な年末の時期、夜からでも行かなきゃ、と自身の身体のことより仕事を休んでしまったということに対し、不安と焦燥を抱いていた。

そうこうしているうちに私の手術デビューはあっけなく終わった。約二時間半の手術が終わり、手術台から降ろされ、車椅子で病室に運ばれた。一足早く病室で待っていた母は今までにみたこともないくらい心配そうな顔をしていて、ようやく自分の身に起きていることの異常さに気づいた。母の姿を確認したや否や、私は濃すぎる一日をようやく終えたとすとんと眠りに落ちた。

翌日、目が覚めたら世界が半分になっていた。

左眼に鋭い痛みを覚え鏡をみると、血の滲むガーゼの上に透明な眼帯がかぶさっていた。それはまるでナウシカに出てくる王蟲の目みたいだった。

その日から歩行制限有り、絶対安静の幽閉状態、終わりの見えない私の入院生活が始まった。

入院生活も二週間目にさしかかる頃、若干のゆがみはあるにせよ左眼の術後経過は良好。いつも通り毎朝の定期検診に向かう。いつも通りの術後検診、先生との問診。しかし、この日は少し違った。私の眼球を覗く先生の顔が曇る。そして私にこう告げた。「右も少し悪いのがいるねぇ、どうするか先生達と相談します。」そう告げられた翌日には右眼の手術が決定した。

1月8日、右眼の網膜剥離手術当日。左眼と同じ要領で手術されてゆく。二回目ということもあって自分にも周りを伺える余裕があった。手術前の医療従事者の会話、年明けでバタつく院内の様子、手術後の対応、病棟の患者の声。聞きたくもない、察したくもない様々な状況や情報が耳から、目から入ってくる。それらは私の不安定な精神を追い込んだ。

入院期間中、眼科棟に二十代は一人も居なかった。唯一自室以外で行ける共用スペースでは、いつもおじいちゃんおばあちゃんの井戸端会議が開催されていた。「白内障で」「緑内障で」そういいながらおひさまの良く当たる窓辺で彼ら彼女らはのんびり談笑している。しかし二十代も前半、社会人一年目を必死に走り続けていた自分にとって、その景色を見ることは苦痛でしかなかった。何もできずここにいることは自身でも認めたくない耐え難い事実だった。後ろめたかった。悔しかった。自分の不甲斐なさに泣いた。弱さを憎んだ。手術後すぐの右眼の傷が痛む。それでも涙は止められなかった。どれだけ前世で悪いことをしたのか。その罪はどれだけ今世で頑張ったって覆せないほどのものなのか。こんなことのために必死に働いていただいた給与が使われてゆくのか。こんなことのために貴重な時間が使われてゆくのか。しばらくこの現実が飲み込めなかった。この状態を自分ごととして捉えたときが最後。不安と焦燥と自己嫌悪がピークに達した。

周りはあれやこれやと言う。

「死ぬわけではない」
「失明免れてよかった」
「ゆっくりやすめるね」
「もっと大変な人もいるよ」

そんな優しさや気遣いでかけてくれた言葉も自分の殻に閉じこもっている自分には、まっすぐ届くわけがなかった。真っ暗ででこぼこな道を、遠くにある一点の光だけを目指して全力疾走してきた自分にとって、このつまずき、いや派手な転倒は容易に立ち上がれるほど甘いものではなかった。

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