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目が覚めると世界が半分になった《後編》

前編を読む》

どん底からわたしを救う光はある日突然現れた。

わたしを救い出したのは、中学高校時代の同級生。彼女はこの病院で栄養士をしていた。

入院してから一週間が過ぎた頃、私の入院を聞きつけた彼女が仕事終わりにお見舞いに来てくれた。学生時代、生徒会長をしていたこともあり(私は謎の使命感と責任感で同学年の生徒の顔と名前はだいたい覚えていた)お互い名前と顔は知っていたが、ちゃんと話しをしたのはこのときが初めてだった。私の母校は東海地区のミッション系の女子校で、いわゆる勉学とはかけ離れたゆるふわ学校。自ら険しい理系(医療)の道に進む人は少ない。そういうこともあってどうしてここで働いているのか純粋に気になり問いてみた。

彼女が栄養士を目指したのは中学二年生の頃。彼女のお母さまがこの病院に入院したとき、お母さまの唯一の楽しみが病院食だったそうだ。その存在に感動した彼女は、それから約十年猛勉強し、見事にその夢を実現したという。

そんな彼女に、お正月の三が日の朝ごはんにおせちを模した料理が並んだことに驚いたこと、とてもうれしかったことを伝えると「よかったぁ、特別メニューの日はとっても緊張するんだよ」といって、仕事のやりがいや苦労話を聞かせてくれた。

入院中のご飯は病気を治すための治療のひとつでもある。だから患者が好き勝手に選ぶことはできないし、文句を言うこともできない。そして街の飲食店とは違って、サービスを受ける側の評価は売上には直接関与しない。それでもいつも緊張感をもって料理の配膳チェックを行い、おせちだなんて手間のかかることを患者さんの楽しみのためだけに考案し、実践する。私は純粋に、彼女に、彼女の仕事に感銘を受けた。年末年始も関係なく命と対話すること。それを仕事にしたいと決めた医療従事者の本気や心意気に少しだけ触れられた気がした。そして、自分の世界や視野はまだまだ狭いと気づかされた。自分のことで精一杯の自分と比べ、彼女ははるかに大人だった。

入院から三週間が経ち無事退院。現在は仕事復帰まで自宅療養という猶予期間を過ごしている。もどかしかった病院での生活も終わってみると懐かしく、愛おしくおもってしまうのだから人間はつくづく勝手な生き物だと思う。

現在、視力は回復したものの、左眼のゆがみや視野の狭さとはこの先も一生付き合わなくてはならないらしい。もちろん今の仕事にもかなりのハンディになる。この先どうなるんだろう。でも、それと引き替えに大事なものに触れ、知ることができたので、今はこれはこれでよかったと思っている。

これは私記に過ぎないけれど、もしも最後まで読んで下さった方がいたとするならばこれだけは伝えたい。それは「何よりも身体は大切にしてほしい」ということ。特に、今回自分が罹ったような眼の病気は、痛みを感じることなく失明まで追い込んでしまう。しかし痛みの症状がないため「気のせいかな」と見逃してしまうことも多いそうだ。加えて今のご時世、Googleで症状を入力すれば大抵調べられるから、勝手な自己判断をして安堵してしまいがち。今回私も「まあ、病気だとしても、痛みもないし、見た感じ異変もないし大丈夫でしょ。」と自己判断してしまったのが手遅れの敗因となった。だから、いつもと視え方が違うなぁと感じたら、どうか気のせいと思わず、自己判断せず、仕事を休んででもお医者さんにかかってください。一日、一時間で失明の危機から救われるので。どうかこの経験、無駄になりませんように。

そして本当の最後の最後に。

今回関わってくださった全ての医療従事者の方々には頭が上がりません。これから先、一生このご恩を忘れることはない。いただいた視える世界、大事にしてゆきます。深い感謝と敬意を。

ps.
私にできることと言ったら写真を撮ることくらいなので最上の敬意と感謝を込めて毎日提供していただいた病院食を最後に載せておきます。最初の十四日間はおかずも汁物も本当に一品も同じメニューがありませんでした。すごい。もちろん味もおいしかったです。感謝。

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