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「霧笛」と隔たり


子供の頃から「時間」が恐ろしかった。

自分が死んで消失することよりも、死後無限に時の流れが続くこと、また、ある地点でぷつりと時間が停止し、それっきりあらゆる変化が消えてしまうこと。どちらも恐ろしかった。

これは観念的な恐ろしさではなくて、もっとフィジカルな実存的恐怖で、本当に居ても立ってもいられなくなり、考え続けようものなら無限という観念(停止もまた無限に続くだろう)に脳が焼き切れそうになり冷や汗ダラダラ、動悸も激しくなった。

世にある恐怖症のリストを見てもこの恐怖症は見当たらない。同じ観念に慄く知人を二人だけ知っているいるが、他にお目にかかったことはない。時間とは違うが、ブラフマンというバンドのTOSHI-ROWは子供の頃に宇宙や生命の図鑑を見ていて、その非人間的なスケールに思い致して嘔吐したという。

たぶん時間と大きさの違いはあれど、同じ現象だろう。処理し切れない巨大なスケールを処理しようとして子供の僕はフリーズしてしまった。

成長するにつれて時間というものがもっと可塑的なものだと知り、ひどく安心した。止まるか動き続けるかだけのベルトコンベアではなかったらしい。

さて、僕にとってSFの魅力とは、かつて恐怖の対象であった非人間的なスケールのことだ。以前、ツイキャスで話したのだが、僕がSFに目覚めたのは、教科書に載っていたレイ・ブラッドベリの『霧笛』という小品がきっかけだった。

萩尾望都によって漫画化もされているらしいこの作品は、灯台守だけが知るある秘密を巡るものだ。随分昔のことでうろ覚えなのだが、年に一回、この灯台目指して海底から古代の首長竜らしき生物が浮上してくる、そんなストーリーだった。

最後の生き残りであるそいつは巨大な灯台を自分の仲間だと思い込んでおり、深い海の底からゆっくりと水圧の変化に馴れながらゆっくりと上がってくる。同胞を失った孤独な生物のなんとも物悲しい物語なのだが、ここでも僕は、海底から陸地までの距離、そして古代生物が過ごしてきた長久の時間の厚みにひどく感じ入った。

もう息苦しくはならなかったけれど、代わりに不思議な感動があった。ブラッドベリの筆致が詩的で素敵だったこともあるが、なにやらこの世には、美しい「隔たり」があるのだと知った。

SFはそういうスケール感を一番よく表現できる文学ジャンルだと後々わかる、というかそういう「隔たり」や「距離感」を感じたいという衝動が自分の内にあるのだとわかった。

もちろんそれはSFに限った特質ではないし、SFだけがそれを表現するのではないけれど、そういうものに触れずにいられない何かが僕の中にあって――それが「霧笛」の世界には及ばぬものの、十年とか二十年というささやかな「隔たり」を経て、ある日、だしぬけに僕にSFを書かせることになる。


リロード下さった弾丸は明日へ向かって撃ちます。ぱすぱすっ